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【異国合戦(8)】北条時宗の誕生、そして摂家将軍の終焉

今回から再び日本史パート。
前回記事は下記のとおり。

日本史パートとしては第3回の続きとなります。


得宗家待望の嫡男

 建長3年(1251)5月15日、後に執権として蒙古襲来を迎え撃つ北条時宗は鎌倉に生まれた。幼名を正寿という。父は5代執権北条時頼、母は連署北条重時の娘である。

「すなわち若君誕生す。奥州(北条重時)兼ねて座せらる。このほか御一門の老若、総じて諸人の参加、あげて計うべからず」

『吾妻鑑』

 つまりは北条一門の老若以下、数えられないほど人々が集まる大変にめでたいことであったと『吾妻鏡』伝えている。
 北条時頼は既に長男となる男子をもうけていたが、側室の子の庶子であり、時宗は待望の正室による嫡子であった。前年の正月元旦に時頼が鶴岡八幡宮別当隆弁に男児出産を祈願して以降、誕生まで安産祈願の祈祷が繰り返された。
 時宗の誕生が多大に期待され、祝福されたのは単に嫡男だからというだけではないだろう。時頼が権力基盤の脆弱な中で執権となり、将軍の九条頼経・頼嗣親子を支える一派と長い政治闘争を続けてきたことを念頭に置く必要がある。
 時宗誕生の時点において、時頼は寛元の政変と宝治合戦を経て将軍派の御家人に大きな打撃を与えており、京から将軍を後援する九条道家も権勢に衰えを見せる中、北条得宗家の政治的優位は回復しつつあった。しかし、北条一門の中で潜在的に得宗家に対抗意識を燃やす名越家は健在であったし、得宗家の政治的地位を不動のものとするには嫡男の誕生が望まれたと理解できよう。
 この流れにおいて北条時宗は父・時頼にとって待望の嫡男であり、生まれながらにして未来の北条家と鎌倉幕府を指導することが期待されていた。まさに御曹司の中の御曹司であり、兄が皇帝となったことで30歳を超えて歴史の表舞台に登場したモンゴル帝国のフビライとは全く異なる境遇であった。

時宗の後援者

 その親族から時宗の成長を支えていくことになる後援者も自ずと明らかとなる。母方の祖父・北条重時とその一門がまず挙げられよう。重時は3代執権北条泰時の弟であり、六波羅北方探題を16年務め、宝治合戦後は連署として執権・時頼を支える幕府の重鎮であった。この重時の一門は母方の実家として当然、時宗の有力な後援者であった。
 重時一門と並んで重要になるのが、有力御家人の安達氏である。時宗の産所には、安達景盛の娘で時頼の母である松下禅尼の邸宅が選ばれた。
 本来、時宗にとって母の実家となる重時の屋敷が産所に選ばれても不思議ではないが、あえて祖母・松下禅尼の邸宅が選ばれたというのはそれだけ安達氏が時頼政権にとって重要な立ち位置にあったことを物語る。宝治合戦で三浦氏が滅び、この頃、北条氏に次ぐ御家人ナンバー2の地位は安達氏に移っていた。後に時宗はこの安達氏から正室を迎えることになり、その結びつきはより強固なものとなる。

九条将軍派、最後の陰謀

 既に述べた通り、時宗誕生の時点で九条将軍派は大きく力を落としており、得宗派との権力闘争は事実上決着していたと見ていい。前将軍の九条頼経は京に送還され、その支持勢力も三浦氏の滅亡で壊滅状態。京の九条道家も権勢に陰りを見せていた。5代将軍九条頼嗣こそ健在であったが、孤立無援に近しい。時頼にとっては待望の嫡男も生まれ、後は将軍交代の時期を図るのみであったと言えよう。
 時宗誕生の年の年末12月2日、足利泰氏が36歳にして幕府に無断で出家し、所領を没収されるという事件が起きる。足利氏は、源氏将軍家滅亡後の清和源氏で最も高い家格を誇る名門であり、得宗家とも縁戚関係にあった。泰氏の出家の理由はわからない。ただ、その後の12月26日、謀反の疑いで了行法師、矢作常氏らが捕縛され、処刑された。この謀反を企てた者らは宝治合戦の残党であり、九条家の関与が疑われた。
 足利泰氏もこの謀反の計画に関与していた可能性が高い。成功の際には執権の地位を約束されていたが、形勢不利と見て自主的に出家した可能性が考えられよう。
 とにかくこの事件が、九条将軍派にとって最後の陰謀となった。北条時頼は遂に将軍交代を決断する。
 翌建長4年(1252)年2月20日、「後嵯峨上皇の第一皇子、あるいは第三皇子を将軍として鎌倉に下されたい」と朝廷に奏請する使者が鎌倉を発った。 将軍交代は執権・時頼と連署・重時の2人だけで決められたという。
 翌21日、京で九条道家が薨去。後鳥羽院政後の朝廷を主導し、将軍となった子と孫を通して鎌倉にも強い影響力を発揮した道家であったが、得宗家の権力を制することはできず、最後は得宗家への反乱未遂の黒幕として強い疑いを向けられる中で亡くなった。

親王将軍のはじまり

 4月1日、新将軍として宗尊親王が鎌倉に下向する。親王は後嵯峨上皇の第一皇子であり、後深草天皇の兄であった。摂家将軍の時代は九条家が親子、兄弟で摂関と将軍を独占したが、宗尊親王の将軍就任により、天皇と将軍が兄弟となった。さらにこのことは、後継者のいなかった3代将軍源実朝が望んだ親王将軍の実現であり、幕府と対立した後鳥羽上皇の曾孫が将軍に就くということでもあった。京と鎌倉の「九条家排除」の思惑が一致することで、親王将軍は実現した。
 北条時頼はようやく九条家を将軍から排除することに成功した。九条頼経・頼嗣の摂家将軍が自身に反発する御家人の中心であることを理解しながらも、その排除に長い時間と手順を要したことは、この時期の将軍が旧来考えられてきたような単なる傀儡ではなく、政治的意味を持つ存在であったことを意味しよう。そして、この時期の幕政の特色として好意的に語られることの多い「合議制」とは得宗派と将軍派の対立の中から生まれた、妥協的な政治形態でしなかった。
 摂家将軍から親王将軍への交代により、鎌倉幕府は新たな時代へと突入することになる。
 
 将軍を解任された九条頼嗣は陰陽師の日が悪いという指摘も無視され、4月3日に鎌倉を追放された。
 こうして得宗専制体制への道が開かれ、鎌倉幕府の新たな時代が幕を開けることになる。

第9回へつづく。


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