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総括「神と仏の鎌倉幕府」(上)

昨年発売された雑誌『宗教問題』37~40号にて連載した「神と仏の鎌倉幕府」。本来は一回ごとに書ききれなかった話や補足をここで書こうと思ったのですが、なかなか時間が取れなかったため、連載終了後の今さらですが各回の総括をまとめて書こうと思います。
2回に分割して、今回は第1回と第2回の総括。

第1回「源氏の守護神・八幡大菩薩」

神にして「菩薩」。
第37号掲載の連載第1回のテーマは八幡神=八幡大菩薩でした。

源氏の氏神で鶴岡八幡宮の祭神ということで最初のテーマとしてふさわしかったと思います。

取材で応神天皇陵(大阪府羽曳野市)に行ってきました。
源氏将軍家とは河内源氏の一門であり、応神天皇陵はその河内源氏の本拠地である河内国にあります。
応神天皇の神霊が八幡神であると考えるのが古来より一般的であり、河内源氏は地元に埋葬される天皇の神霊を氏神にしたということになります。

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)

八幡信仰は九州の宇佐発祥であり、海の向こうの外敵に対する守護神としての武的性格を源氏が信仰する以前より持ち合わせていたわけですが、やはり河内という地縁抜きに河内源氏の八幡信仰を語ることはできないでしょう。

連載記事では、河内源氏が八幡神を信仰する大きな転機となった出来事として長元元年(1028)の平忠常の乱を取り上げました。この戦いで河内源氏の祖・源頼信が八幡神に戦勝祈願をして出陣し、戦うことなく平忠常を降伏に追いやる。そして、この功績が河内源氏の飛躍のきっかけとなり、河内源氏の八幡信仰が確固たるものとなっていくという流れ。
ただ、注意すべきは河内源氏が平忠常の乱に勝利して、ただちに八幡神だけを信仰するようになったというわけではないということですね。
河内源氏3代目の源義家が石清水八幡宮で元服し「八幡太郎」と呼ばれることは有名ですが、長弟の源義綱は加茂神社で元服し「加茂次郎」、次弟の源義光(甲斐源氏の祖)は新羅明神で元服し「新羅三郎」と呼ばれます。
つまり、義家の弟たちは八幡神ではない神前で元服しており、この時点では八幡神だけが河内源氏の氏神として絶対的な信仰の対象ではなかったことがわかります。
それでも源頼信が応神天皇陵に平忠常の乱の戦勝は八幡神のおかげであると感謝した告文が残されていますので、この戦いの勝利が八幡神を河内源氏の氏神とする大きな導線となったことは間違いがありません。

なお、源頼信が乱の鎮圧を命じられたのは前任の平直方(戦後に河内源氏と縁戚となる)が鎮圧に失敗したからであり、この直方が鎌倉幕府執権北条氏の祖であると『吾妻鏡』が記している話は本誌記事でも書きました。
字数の関係で本誌では省略したのが敗れた平忠常の子孫の話。
忠常の子は罪を許され、房総平氏として発展していきます。
その子孫である上総の上総氏、下総の千葉氏は後に源頼朝の挙兵に参加。
大河「鎌倉殿の13人」では佐藤浩市演じる上総広常が人気を博しましたが、記事を書いた時には広常はまだ劇中に登場しておらず、後になってこの房総平氏の話は書くべきだったなぁと後悔しました。

第2回「義経信仰とは何か?」

「伝説」ではなく「信仰」。
第38号掲載の連載第2回のテーマは源義経でした。

当初は有名な「義経=チンギス・ハン説」など北行、大陸渡海の伝説を中心に取り上げようかなと思ったのですが、それだとありきたりで面白くないので、義経の物語の多くが宗教者によって生み出され、語られたものであるという話をメインに書いてみました。

鞍馬寺の勧進聖熊野修験の山伏時衆(時宗)の念仏聖、彼ら廻国の宗教者たちによって義経の伝説は全国に広まり、今日まで続く義経人気の下地をつくりました。
では、なぜ彼らが義経伝説を生みだし、そして広めたのか。
身も蓋もない話をすれば、布教と金儲けに利用したという結論でして、こんな話を書くと罰当たりだと怒られるんじゃないかと思いましたが、そうとしか説明できない(記事ではもう少しソフトな言い回しにしました)。

義経の反頼朝の挙兵失敗後の平泉への逃避行は北陸道を経由したことが当たり前のように語られますが、これは確かな史料からは確認できません。
実際の所、廻国の宗教者たちがよく使うルートだったから、そこに義経伝説を落とし込んだだけの可能性も十分にあります。
実際、『義経記』の義経は時衆の修行道場である寺院に現れています。
また、修験者の格好をして平泉へ逃れる義経と弁慶の物語は、修験道の影響を確かににおわせるのですが、修験道の本場である羽黒山には立ち寄っていません。
このことは、義経伝説を語ったのが熊野修験の山伏たちであり、羽黒修験は関与していないことを伺わせます。
弁慶が熊野別当の子と語られるように、義経伝説は熊野との縁が色濃いんですよね。これは義経伝説を考える上で重要なポイントだと思います。

なお、本誌記事を書く上で講談社学術文庫の『源義経』(角川 源義 , 高田 実 (著))はとても参考になりました。関心ある人は読んでみてください。


第3回、第4回については次回の記事で書きます。

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