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【いざ鎌倉:コラム】和田合戦余話

今回は「和田合戦余話」として前回の本編で書き切れなかった逸話をまとめたいと思います。
和田合戦は幕府初期最大の内部抗争なだけあって、様々な話があります。

今回は是非本編を読んでからお読みください。

和田胤長屋敷をめぐる攻防

流罪となった和田胤長の屋敷を一度は和田一族が拝領するものの、北条義時がこれを強引に追い出すという事件がありました。

決戦のおよそ40日前の話。
義盛は「御所に近く出仕に便利」ということを理由に屋敷拝領を願い出ましたが、これは合戦になれば和田方による御所攻略の拠点の役目を果たすことになります。

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胤長邸は将軍御所東門すぐ(『源実朝』坂井孝一(著)より引用)

義時が強引に接収したのは和田氏への挑発という側面と、今後起こり得る合戦に備える側面と両方があったと考えて良いでしょうね。

大江広元が嫌い?

挙兵して将軍御所に攻め寄せた和田勢ですが、本編でも触れた通り同時に北条義時と大江広元の屋敷にも攻撃を加えています。
北条義時は和田胤長を流罪とし、和田一族に恥をかかせた憎むべき仇敵。将軍実朝に対して反旗を翻す意図のない和田義盛にとっては最大のターゲット。義時の屋敷が攻撃されるのは理解できます。
じゃあ、大江広元の屋敷はなぜ攻撃されたのか?
将軍御所の正面にあるので押さえておきたいポイントだったというのもあるのでしょうが、これは単純に和田義盛が大江広元を嫌っていたということもあると思うんですよね(笑)

将軍への取次ぎを担当する大江広元ですが、和田義盛が重要事項を申請したときに広元は大体役に立っていない。

まず、梶原景時弾劾状を提出したとき

厄介ごとに巻き込まれたくない広元は当初、これを取り次がないで握りつぶそうとしますが、業を煮やした義盛が怒り気味に詰め寄ったことで広元は縮み上がって頼家に取り次ぐということがありました。

続いて上総国司推薦の依頼
大江広元が取り次ぎましたが、国司任官は実現せず。

そして和田合戦のきっかけにもなった甥・和田胤長の赦免要請
これも実現せず、胤長は流罪に。

このように大江広元を取次とした要請が、度々義盛にとってはストレスのたまる結果となっていることがわかります。
「あいつは仲介するだけで何の役にも立たない」という感覚は義盛にはあり、本気で広元が嫌いだったんじゃないでしょうか。
生粋の関東武士である豪傑・和田義盛と京出身の元貴族である大江広元ではやっぱり気が合わない気がします。

二日酔いで出陣

和田合戦当日、和田義盛が挙兵したとき、将軍実朝も政所別当の大江広元も酒宴の最中であったことは本編で触れた通りです。
申の刻(午後4時)にはもう宴会をやっていたわけでいまの我々の感覚だと早い時間から飲んでるなぁという感じがします。
実朝も広元も慌てて避難することになるわけですが、前日に宴会があって二日酔いで出陣することになった人もいます。
それが後に御成敗式目を制定し、名執権として名を残す若き日の北条泰時です。

合戦後、祝勝の宴となり、泰時は仲間の前で次のような話をしています。

「前日の夜に酒を飲みすぎてしまって二日酔いだったんだけど、そんな時に和田義盛が挙兵しやがったんだよ。なんとか甲冑を着て馬に乗って出陣したけど、すごく気持ち悪くて酒はもうやめようと誓った。
そのあと、戦ってる最中に喉が渇いちゃって、誰か~水を持ってきてくれ~って言ったら部下が酒を持ってきやがって仕方なく飲んだよね(笑)人の決意なんてこんなもんだ。でも深酒はやっぱりやめようと思う」

ひどい二日酔いになる→禁酒を誓う→やっぱり飲む。飲みすぎなきゃいいんだ。

酒飲みの人はみんな同じ経験ありますね?
私もあります。

なお泰時は「和田義盛は将軍に謀叛を起こしたのではなく、父を恨んで挙兵したのであり、自分は単に父の敵を成敗しただけ。褒美はいらないです。」と恩賞を辞退しようとしましたが、実朝に当然の恩賞なのだから受け取るようにと説得されています。

三浦犬は友を食らふ

和田合戦から約40年後に成立した『古今著聞集』に次のような話が載っています。

ある年の正月、御家人たちが将軍御所に集まることになり、三浦義村が座に座ったところ、年若い千葉胤綱が後からやってきてその上座に座りました。
千葉氏も三浦氏も挙兵直後から源頼朝の軍勢に加わった幕府創設に功のある名門。ただ、三浦氏総領として長年幕府を支えてきた50代前半の義村に対し、千葉胤綱は父・成胤から家督を継いだばかりの12歳の若武者でした。
その若武者が自分の上座に座ったため、義村は
「下総犬は臥所を知らぬぞよ(下総の犬は寝床を知らねぇらしいな」)」
と言います。
下総は現在の千葉県北部から茨城県西部で千葉氏の本拠地。
それに対し成胤は次のように言い返します。
「三浦犬は友を食らふなり(三浦の犬は友を食べるぞ)」
和田合戦で三浦義村が和田一族を裏切ったことを当て擦ったわけですね。

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三浦義村と和田義盛は従兄弟(前掲書より引用)

これが事実かどうかはわかりませんが、色んなことを教えてくれる話ではあります。
まずは、「三浦義村は同族を裏切った」という認識は当時から多くの人が共有しており、それが悪口として成立するということ。『古今著聞集』は京の橘成季の著作なので京の貴族も認識していたらしいこと。
そして当時の感覚では、義村の行動は「一族ではなく将軍を選んだ忠義者」ではなく「一族を裏切る人非人」と見なす価値観が強かったということも言えるでしょう。
席次は武士の喧嘩の材料になる犬は「犬畜生」として悪口に使われる動物であったという当時の習俗もあらためて認識させられる事実ですね。

北条義時、和田義盛 それぞれの思惑

和田合戦により強力な軍事力を誇った和田一族は壊滅し、北条一門と三浦一門との差は大きく拡大しました。
この時点で御家人の勢力図は完全に北条一強となったと言えます。
北条義時の狙い通りなのでしょう。

本編で何度も触れた通り、和田義盛は将軍実朝から強い信頼を得ていました。
実朝は父・頼朝以来の慣例をひっくり返し、なんとか義盛を本人の希望通りに上総国司にしてやれないか悩んでいたぐらいです。
そして孫の朝盛も実朝の歌会の常連メンバーで側近中の側近。
実朝に強い信頼を得ていたからこそ義時は和田氏を警戒したと考えます。

もちろん実朝は義時も信頼しており、政務の多くを委任してはいましたが、やはりそこは叔父と甥という親戚関係ということもあり、和田氏との信頼・忠義の関係とは少し違ったものであるように見えます。
実朝個人の和田一族への強い思い入れこそが和田合戦の遠因にある気がしてなりません。

和田一族としては将軍との深い繋がりをテコとして、北条氏との格差を埋める戦略であったと考えますが、泉親衡の乱に関与者を出したことは完全に失敗でした。
この失敗を見過ごすほど北条義時はお人好しで甘い人間ではありません。
ここぞと和田氏を挑発し、挙兵に追い込んだ義時の勝負勘が見事でした。

おそらく和田義盛本人には当初、謀反の意図はなく、泉親衡の乱にも無関係であったと思いますが、子や甥世代の一族若手が打倒北条義時の血気に逸り、それを抑えることが老齢の義盛には難しくなっていたのでしょう。
最期は義時の度重なる挑発を前にして、義盛は自身の感情も抑えることはできなくなってしまいました。

若手のやむにやまれぬ暴走が破滅に至る展開は、なんとなく西南戦争や二・二六事件を想起させます。 


次回

人物伝・和田義盛

シリーズ和田合戦はとりあえず次回で一区切りです。

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