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「痛み」とのつきあい方(中編)

前回は、頸椎ヘルニア発症記、からの、痛みの話。
前編はコチラ↓

今回はその続きです。

読んでくれた皆さんにとにかく伝えたいので、くどいくらいに言いますが。
とにかく。痛みは我慢するもんじゃない。ひとつもいいことないから。

私の家族は割と、痛みを我慢して終わらせようとする人で、
今回の私の激痛に対して共感性が低く、私にとってはそれも辛かった。
「おなか痛いの、我慢してれば治ることがあるから……」
ですって。
いやいや、だから、6日間、1ミリも治らなかった、っつーの!!

心身ともに我慢強い親友は、かつて体調不良に気づきつつも
激務を続けていたら腸閉塞になって病院に担ぎ込まれた。
「もう、我慢などしないで、早めにケアをしてよ」
後日談として聞かされた時に、懇願した。
そう。タイムリーじゃなく、後日談として言うところも、
我慢系の人の特徴かもしれない。

なんてことを思い起こすと、私もかつて、
自分の痛みをなんとか自分で処理しようとしていたな、と振り返る。
身体の痛み、じゃなくて、心の痛み、の話。

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もう前世くらい前の時代に感じるけれど、昔の私は、何か辛いことが
あっても、悩むことがあっても、ほとんど自分でおさめていた。
そしてそれが、とくに苦ではなかった。
だって、自分で処理できちゃうから。
人に相談するのが苦手、なのではない。
相談する必要がない、のだ。

いつの頃からだろう。
心のほんの小さな擦り傷くらいのことでも、身近な人にぼやいて、
聴いてもらうようになったのは。
「解決」、という観点でいえば、話したとて毎度毎度、
新たな方向性が見つかるわけではない。
私が想定している答え、でそのまま終わることもある。
つまり、「解決法」という意味での効果や成果が、必ずあるわけではない。

けれども、心の痛みを吐露する方が、
なんだか人生が豊かになる手応えがある。
他者と繋がった感覚がある。
いや、別に寂しいわけじゃないし、孤立しているわけでもない。
でもこれをした方が、心が満たされる感覚がある。

そういえば聴いてもらう立場の時だけでなく、
聴く側に立った時も、この満たされ感はある。
喜びは二倍に、哀しみは半分に、というのは、
こういうことなのか、と思う。
だから、そうしている。

こういうのを、心理学や神経生理学の領域では「協働調整」という。

我々ほ乳類特有の活動だというのを知ったのは、
この「他者との関りによって安心を感じて回復に至る」という習慣を
身につけてからかなり後なのだけど、実感があったのでうなづけた。

とはいえ、「効果」という観点でもやはり良い面はあって、
自分の気づかない視点を指摘してもらえたり、時に正気に戻ったりできる。
心の擦り傷はもちろん、それ以上の切り傷、骨折、
それも複雑骨折くらいまでいくと、とにかく早めにケアすべし。
なぜなら、その傷が悪化するのを防げるからだ。
つまり、トラウマ化しない=慢性の痛みにしない、ということだ。

「これは大きなインパクトになる体験だな」と思ったら、私は溜めない。
早めに出して、急性期の間に最適な治療をすることにしている。

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とまあ、頚椎ヘルニアによる肉体の痛みを経験し、
心の痛みにまで思いが向いたのだけれど。
次回、もう一つの痛みの話をしたい。

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