「怪物」は「誰」、だったのか?
先日、友人と会った時のこと。
前回会った時に彼女の使った言葉が気になっていたので、そのことを持ち出した。
なんとなく、
「もしも◎◎◎な風に思わせてたら(ごめんね)、私の意図とは違うから」
と言いたかったのだ。
すると友人は、そもそも自分が発した言葉を覚えていなかった。
無自覚に、サラッと出ただけ、だと思う。
よくわかんないけど。
らしい。
もちろん私も、その可能性を想定していたし、それならそれでいい。
良かった。と思った。
「軽く発した言葉を、そんなに深く考えてくれてたなんて……仕事柄かねぇ」
そう言われて、うーん、仕事柄、というよりは、できるだけ関係を良い状態に保ちたい、ケアやメンテナンスをしていたい、というのが動機なんだけどな。
と軽く伝えつつも、まぁ、「自覚できない私」という姿もあるから、友人の言ってることも私のイチ側面として受け止めよう、とこの話を終わらせた。
この時の私たちが胸に刻んだストーリーは、きっと、それぞれに、違う。
人と人との間には、こうやって少しずつの誤解が、常に起こっているんだと思っている。
そもそも「誤解」という言葉が、一方通行のニュアンスを孕んでいる気もするしね。
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ところで今回は表に出したけれど、毎回毎回、人間関係にこんなケアやメンテナンスを持ち込んでいるわけではない。
そんなことしたら、ともすると「面倒くさい人」だ。
する方も、される方もね。
すべてのコミュニケーションにこんなエネルギーをかけていたらいろんな意味で割に合わないし、時にほじくり返さなくてもいいことまで扱うことになり、メンテナンスどころか破壊を招く。
お互い心地よく生きるには、多少のズレは見過ごした方が身のためだ。
そもそも。 「人と人は、分かり合えない」 が私の前提だ。
だからこそ、分かり合う努力に価値があるし、努めたところでやはり永遠に交わらない、うっすらした隙間が他者との間にはある。
分かり合えた!と仮に思っても、確かめる術はない。
このことを思うと、何とも言えない哀しさに震えるけれど、明らかにわかっていることなので、明るい絶望だ。
哀しくて、明るい、絶望。
少しの誤解が練り込まれた理解という材料で、私は世界を創造し、その風景の中で、ものを見る。
この感じとともに、生きていく。
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週末、是枝裕和監督・坂元裕二脚本の映画「怪物」を観た。
先ほどの友人とのやりとりを思い出したのは、この映画を観たからだ。
「環世界」、が思い出される。
ドイツの生物学者・ユクスキュルが提唱した、「生き物の、その感覚器官によって捉えられる世界・身体を使って働きかけられる作用世界によって、主観的に構築する世界が違っている」というものだ。
同じ空間で生きていても、人間と犬、ハエ、マダニ……と、種によってとらえる世界が違う。
けどさ。
たとえ同じ種であろうと、少なくとも私の知る限り、人間は。
誰一人として同じ環世界に生きていると思えない。
ユクスキュルさんの仰ってることを拡大解釈し過ぎなのかもしれないけれど。
この映画にも、それぞれの環世界があった。
片方からは見えない、思いもよらない環世界が。
ああ、やっぱり。
人間の数だけ、環世界があるのだろう。
それを丁寧に辿れたらいいのだけれど、そんなことをやっていたら、毎日それだけで終わっちゃうんじゃないかと思うくらい、途方もなさすぎてクラクラする。
けれどもその、途方もない世界が創り続けられていることを、忘れないでいたい。
時々、違う環世界の最近接領域までいけたら、感動だ。
人はそれを、「優しさ」と呼ぶのかもしれない。
【おまけ】
そうそう。
もしご覧になるなら、パンフレットを購入されることをお勧めします。
とくに、プロダクションノートに興奮しました。