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教えない理由②

「教えない理由①」の続きを本日は。
前回はコチラ↓


さて。
私は、山伏(山に入って行をする修行者。修験道の行者)であると同時に、真言宗の僧侶の見習いでもある。

※説明すると記事が長くなりすぎますゆえ、よかったらコチラもご覧ください

空海が開いた真言宗は、密教をベースとしており、「事相」と「教相」の両輪を大切にしている。
事相とは道具の扱い・作法などの実践面、教相は思想・学問的な側面を指す。

「密」教というだけあって、それらの教えの中には、秘密のモノがいろいろとある。
(秘密だから書けない)
師僧からお沙汰(お作法)を習う際、「次第」という教科書のようなものを元にして学ぶのだが、教科書には書かれていない、いわゆる「口傳(伝)」のものが、まあまああるのだ。
もちろん口伝といっても言うだけじゃなく、師僧とともに身体を動かし、実践しながら習う。

で、思うのは、

「全部書いてしまったら、そりゃあ、ダメですよね」

だ。

この教え、誰でも彼でもアクセスできるようにしてしまっては、いろいろとマズい。
何がマズいって、実践しないと身につかない、というのはもちろんのことだが、使い方をわきまえないと、大変なことになる(たぶん)。

たとえば昔は、政敵を引きずり下ろすために呪い呪われ……が当たり前の時代。
(政治家と僧侶が密接だったのもよく知られた話)
「『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』はアニメの世界だもんね」じゃ、ないのだ。
核技術と同じで、使う人間の意図ひとつで、起こることが変わってしまう。

技術や知識には色がついていない。
師僧が弟子の様子を見極めて、次の修法を教えるかを決める。
弟子は、教えるに足るか、を見られているのだ(と私は思っている)。


――教えないのは、危ないから。


前回に続く、別の、教えない理由である。
(念のため言っておくと、私が習っているのは呪いではございませぬ)

例として密教修行の話をあげたけれど、実は、ビジネスの現場でも同じことがよーくよーく、あるのだ。

「(相手が)教えるに足るかわからないから、(安易に教えると危ないから)教えない」

というのを。

毎年、新人育成担当者向けの、育成研修に登壇している。
そこで、育成担当者からのお悩みをたくさん、たくさん聴く。
その中のひとつが、「教えるに足るか問題」だ。

「足るか」というと評価的な印象になるが、そういう意味合いよりも、「今の段階でここまで教えていいのかどうか」という「進度」が課題になることの方が多い。

「対機説法」という仏教用語がある。
数多ある教えの中から、相手に合わせてチョイスして教える、という意味で、「応病与薬(病気に合わせて薬を出す)」と表現されたりもする。この領域の話だ。

一方、評価的な心証になる場合は、育成者が「教えたくない」となることが少なくない。
学ぶ側のマナーが悪い、聴く耳を持っていない(ように見える)、仕事に向かうモチベーションが低い(ように見える)……などが重なり、新人への心理的障壁が高くなってしまった場合だ。
加えて、「この人に仕事させたら、大変なことが起きるんじゃないか(例:クライアントを怒らせたりとか、他部署に迷惑をかけたりとか)」が想像されてしまうと、さらに「教えたくない」気持ちが増大する。

で、私は「教える側」の技術やスタンス、マインドセットなどをテーマに研修をすることが多いのだけれども、つくづく思う。

教えてもらう側にもそれなりのエチケットがありますわね

と。(そういえば、「育成者研修」は多々あれど、「育成され方研修」って聞いたことないな。やった方がいいんじゃないかしら)

「教えてもらえる人」「育ててあげたいと思われる人」になった方が、きっと、何かと得だ。
私自身、学び手になることも多々あるため、我が身を省みながらそう思う。
(良い「育成され人」かどうかは、自信がない)

検索すればいろいろなことが学べるようになった今だけれど。

「それは書いちゃダメよね」

ってことが、この世にはまだ、たくさんある。
その世界への扉は、「信用」という鍵がなければ開かないのだ。

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