可愛げのある男性に好感を持つ理由がわかった!!!!!!
デミロマンティックの人間というのは、基本的に見た目で人を好きになることはない。
私にも「好きな顔」はあるものの、それは好きなデザインの服を見つけたときの高揚感に近く、恋愛感情にはつながらない。
ところがある日、母親に、私が好きな男性芸能人は可愛らしい見た目の人が多いと指摘された。ガタイのいい人とか野生的な人には惹かれないよね、と。
私は「顔」がきっかけで誰かのファンになった覚えはない。その人の作品、各メディアでの振る舞い方、インタビューなどから伝わるパーソナリティーや考え方に、共感したり尊敬できるから、ファンになる。
でも、母親にそう言われたときに否定することができなかった。たしかに実生活でも、恋愛感情は抱かないものの、可愛げのある男性の方が話しやすったり好感を持てる。それって見た目で人を判断している?自分の中に矛盾が生じた。
潜在的に男性に対する苦手意識があるのだろうかとか、友達感覚で親しみやすいからかな、とそれっぽい理由を考えてみた。でも今日、自分でもびっくりするほど納得のいく理由に辿り着いた。
可愛げのある男性=「男性らしい」とされる振る舞いを実践することに抵抗がある=ホモソーシャルにとらわれていない
ホモソーシャルとは、直接的に訳せば「男性同士の絆」。男性同士が、地位や経済力、そして女性を「モノにしている」かどうかで互いを認め合い、そうでない者はバカにされたり仲間外れにされたりする男性中心社会のことだ。残念ながら今の日本の社会はこれだ。ホモソーシャルの世界では、女性は「支配」するべき存在だから、女性経験がないと必要以上に見下されたり、女性に迎合した態度は批判の対象になる。ホモソーシャルでは、女性は「男性に選ばれる立場」で、女性は「男性に選ばれること」で価値が決まる。
ホモソーシャルな世の中ほど、デミロマンティック(Aro/Ace)にとって生き辛い世の中はない。なぜ恋愛によって自分の価値を決められなくてはならないのか?Aro/Aceの人が、「それはモテない言い訳だよ」とたまに言われてしまう理由がよく分かる。恋愛によって(男性は魅力的な女性を支配することで/女性は男性に選ばれることで)人の価値が決まってしまう世の中だからだ。「恋愛しない」という選択肢が認められていない。
可愛げのある男性に話を戻そう。女性に対してぶっきらぼうな態度を取ったり女性経験の多さをひけらかしたりしない彼らは、ホモソーシャルの世界においてはカーストが低い(もちろんルックスが可愛い男性がみんなそうというわけではないし、計算して可愛げを演出している人もいるだろう)。
つまり何が言いたいかというと、可愛げのある男性は自分自身も「男性らしくあれ」という圧力に少なからず苦しめられているから、他者に「男性らしさ/女性らしさ」を求めることをしないのではないか?という仮説が成り立つ。
例えば、中性的な服装を好む男性が、女性に対して「女性らしさ」を求めてきたりするケースってあんまりないと思う。「じゃあお前はどうなんだ?」って返り討ちにあってしまうから。
だから私は彼らと接しやすいのだ。私のことを「支配できる女性の候補」として見ていないから。人として接してくれている感じがするから。
やっぱり私は内面を見ていたんだなと自分の中の矛盾が無事に解決した。実際、似たような顔の芸能人でも、この人は好感持てるけどあの人には惹かれないことがある。母親にも「Aが好きだったらBの顔も好きじゃないの?」と言われることがあるけど、そういうことではないのだ。
※この記事を書くにあたり、上野千鶴子先生の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』を参考にさせていただきました。なぜ「ホモソーシャル」や「ミソジニー(女性蔑視)」がこんなに根付いてしまったのかがよく分かります。
恋愛しない人が浮かない世の中に変える活動をするために使います。エッセイ以外にも小説を書いたり、歌も作っています。