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【短編小説】風の音



女は銀座に立つ料亭の裏で煙草を吸っていた。
いつもはどんなに最悪な機嫌をも直し、心を落ち着かせるものであるそれが、ここ最近は、心を乱すものになっていた。

「そろそろ辞め時かしらね」

火が消えたことを確認し、料亭の中へと戻る。

二階と一階に、常連の団体客。二階の客は都々逸やさのさを嗜むのが好きで、この女でなければ相手ができない難客だった。

「〽憎らしい 憎い仕打ちは虫が好く 花を愛して嵐を憎む
 道理で通す 私でも 苦労する気になるわいな」
「いやぁ、君の声はいつ聴いても艶っぽいね。さのさを今の時代に知っているというのは君くらいじゃないか」
「とんでもないですわ。お兄さんたちに教えていただいたからですよ。こんなに楽しいものだと知らなければ、お勉強しようとはおもいませんでしたもの」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。なぁ、女将さん。君、一杯。飲むだろう」
「あら、よろしいんですの? いただきます」


女は待ってましたとばかりの笑顔で、袂に入れていたお猪口を差し出した。少し冷えた燗が溢れそうなのを、女は口から迎えにいき、飲み干す。

「どうもお兄さん。ごちそうさまです。お燗というのは、どの時期にいただいても美味しゅうございますね」

酒に強いはずの女だったが、今日はなぜかこの一杯でクラクラとし始めた。先程の煙草がよくなかったのか、それとも体調が悪いのか。酒が胃にたどり着くのと同じ速さで考えが脳内をめぐった。それでも女は笑顔で接客をこなす。

「あんた、ちょっと今日おかしくないか」

客が帰り、女が着物から私服に着替えている最中、女将が声をかけた。

「体調、大丈夫なのか。頑張ってくれるのは有り難いけどね、無理だけはするんじゃないよ」

「女将さん、ありがとうございます。でも、元気なんですよ。本当に。ちょっとお酒、弱くなっちゃったのかしら」

「肝臓はこわいから、明日病院でみてもらいなさい。少し遅れてきてもいいから」

「ええ、そうします。ありがとうございます女将さん」

じゃぁ、お休みなさいと挨拶をし、勝手口から外に出る。

「ああ、夜風が気持ちいい。ちょっと一服しようかしら」

酒が入った体に、夜風があたる。女はこの瞬間が好きだ。
一本取り出し、唇につけた瞬間、あることが頭をよぎった。

「まさか……。そんなことはないはずよ」

念の為、火をつけずに捨てた。


朝一番の院内は混んでいた。皆、不安は早く解消したいのだろう。

「248番の患者様。5番診察室へお越しください」

内診台へあがる。こればかりは何回しても慣れないが、仕方がない。ほとんど意味をなさないピンク色のカーテンが憎らしい。

「見えますか。胎嚢がありますよ」

思考が停止した。

「どうなさいますか」
「……産みます」
「わかりました。おめでとうございます」

口をついて出た。

女はエコーを持って料亭へ向かった。

「女将さん、私、産んでもいいでしょうか」

寝起きだった女将は目を見開いたが、すぐに笑顔になる。

「もしかしてとは思ったんだよ。おめでとう。で、男は?」
「………」
「そうかい。賑やかになるね」

やっと、温かい涙が頬を伝った。


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