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舟越桂:佇む遠い記憶・霊性の存在 〜『新日曜美術館』への道/個人的な開眼〜


〈舟越桂 森へ行く日〉彫刻の森美術館 会場風景より

1・彫刻家・舟越桂の人物像には何が刻まれたのか

 舟越桂の作品にはいわば〈佇む遠い記憶〉があり、西欧文化を背景とする日本人の彫刻家の戦争の遠い記憶が刻まれている。

 舟越桂が生まれた1951年とは、敗戦後の連合国軍占領期の体制から軍事的安全保障条約によって、名目上の独立が決まった年であり、その後、舟越を含む、少し上の世代は日米安保をめぐり、政治闘争運動が熱を帯びていた。
 その後、舟越が作家としてデビューしていく80年代の日本は、バブルと呼ばれるようになる高度経済成長期の頂点に上り詰めた、派手でPOPでライトな傾向が喜ばれる、そんな時代であった。
 バブル崩壊の引き金となった1985年のプラザ合意の翌年、舟越はロンドンに一年滞在している。いずれにせよジャパン・アズNo.1としてやっかみさえ受けた時代で、経済的には勢いがあった。

 舟越の彫刻に〈戦争〉がどこにあるか、といえば、遠く彼方に捉えた戦争によって引き継いだ佇まい、その〈身体性〉に感じ取れるという点である。欧米化へ勢いよく傾斜していく日本人・舟越の眼はそれを捉えている。
 半身像から一時期、全身像の作品の時期を経て、首から下の身体には直接的な物質を使ったもの、そして人間の体ではない造形や抽象性が現れてくる。その表現はシンプルに言えば〈身体の不自由性〉とも言える。その不自由性は、外部から傷つけられたものか? 生まれつきのものか? その人自身なのか、あるいは鑑賞する者の「心的な表れ」なのか?

〈舟越桂 森へ行く日〉彫刻の森美術館 会場風景より
〈舟越桂 森へ行く日〉プレス内覧会・彫刻の森美術館 会場風景より

 1980年代後半に国内外で評価を受けていく美術家、例えば森村泰昌、宮島達男、川俣正と圧倒的に違うのは、舟越の創作に現れる極めて強い内向性と内省的表現である。派手にPOPに激しく原理的にと向かった時代的表現の流行とは、真逆を走った。

 極めてその精神性の強いこだわりは、一時的な取材やインタビューでは姿を現さないであろう。彫刻家・舟越桂は2024年3月に昇天した。箱根彫刻の森美術館『舟越桂 森へ行く日』の展覧会企画は決まっており、開催される数ヶ月前にあちらの世界へ旅立ってしまった。

〈舟越桂 森へ行く日〉彫刻の森美術館 会場風景より

2・個人的な開眼~NHK『新日曜美術館』への道

 やはり生前にお会いして、話を聞いておきたい一人だったと思う。しかし後悔はない。十分に多くのジャーナリスト、メディアから注目を受け、取材は一通りされてきているからだ。
 それ以上に舟越桂という作家は、僕にとって繋がっていく、2、3のことの方が重要だった。
 きっかけは2003年、東京都現代美術館で開催された『舟越桂:Katsura Funakoshi Works: 1980-2003』を時間をかけて見たことだった。

 以来、舟越桂には関心を持ち続けていたが、それ以上に父の彫刻家・舟越保武、弟の美術家・舟越直木により注目する眼が開いたことが一つ。

 そして、そもそも東京都現美の個展を知ったのはNHKで放送された『日曜美術館』だった。2003年の春、ちょうどその秋に企画されていたNHKの特番の仕事があったが別番組のスタッフとして、見ていたのが当時の『新日曜美術館』だった。
 舟越桂のアトリエ内で撮影されたドキュメント映像、作品の解説・読み解き、舟越桂の伝記的背景・ライフストーリーに迫ったその番組本編に、とても感心した。2003年当時TV番組ディレクターとして、バラエティやドキュメンタリー、生活情報などは担当していたが、10代の頃から見続けている美術展や現代アートを取り上げ、番組にすることはあまり考えたことがなかった。

 しかしその舟越桂のドキュメントを見て、これは自分がやるべき方向だと、確信した。TVを見た読後感として、またその映像を通じて、人々の心にアプローチできるツールとして、美術・アートは最も取り上げるべきジャンルだと、その時に強く思った。 
 やがて40代を境に、アート・デザイン、漫画・サブカル、美術・芸術系の番組企画へと方向性が向いてゆき、やがて美術・芸術を本丸としようと決意する。そして『日曜美術館』の番組企画・構成・ディレクターとしても担当することになる。


〈舟越桂 森へ行く日〉彫刻の森美術館 会場風景より

 それまでにもクラシックな画家や美術家を取り上げた番組は見ていたが、2003年当時「日曜美術館」でとしては珍しい現存の作家を取り上げたことで意識的に見たという記憶がある。
「もし自分が、取材者・ディレクターであったなら」という視点で見た
 舟越さんという芸術家の映像を通して受けた印象は、人との対応は難しくないだろうが、内面にもつ頑固さ、こだわりは相当なものと感じた。そのハードルを僕はディレクターとして超えられるだろうかと思った。
 それまでタレント・芸人や俳優さん女優さんの密着取材を多く仕事としてやっていたし、著名人や芸能人の対応能力にはそれなりに自信があった。
しかしアーティスト、美術家は一筋縄ではいかない、だろうな、というのが編集済みの映像から読み取れた。しかし僕はその時、いずれ芸能人やタレントにではなく、アーティスト・美術家の方へ向かうのだろうとふと思った。
 その直観は正しかった。いずれ僕は「美術・芸術」がジャンルの中心になるだろうと、そう思いながらも、TV業界での七転八倒は激しく、なかなかそれだけを専門と言うにはには及ばなかった。芸能バラエティや生放送・情報番組、ニュース報道などさまざまなジャンルを経て、目標のゴールを通過することは叶った。

〈舟越桂 森へ行く日〉彫刻の森美術館 会場風景より

3・人間とは別物の不気味さ、霊性の存在の正体

 2003年、舟越桂の作品を会場で見て感じたことは「人ではない存在感」だった。空間に立つ彫刻物に、明らかに人ではない(また逆に、まるで人のような)強い”存在”を感じた。これがいわゆる芸術的な感覚なのだろうかと、その当時、僕は思った。

 本来向かうべきゴールへと僕を導いてくれた舟越桂作品の魅力とは、そんな人を超えた彫像の存在感であり。それは、ずっと遠い戦争の記憶の影を捉えた明確な〈佇まい〉なのである。そして存在感とは、突き詰めて言えば、それは〈霊性の存在〉である。

 舟越の人物像に惹きつけられる一つのポイントを、2003年の図録に掲載された朝日新聞社の帯金小郎氏の記事から引用する。

人は彼の人物像を冷たい彫像というよりも、血の通った一人の人物のように感じ自らの内面を投影し付き合っていく。しかしまたそれが実際に生きている人間と別物であると気づくと、逆に不気味に遠く感じる

また玩具としての人形ではなく、古来より歴史的な意味で人形とは、

神聖な呪術的オブジェであり畏怖や恐怖の対象でもあった。日本でも人形は古代では『ひとがた』と呼ばれ、神や人の形代(かたしろ)として霊的な存在であった

「水に映る月蝕」(2003) 〈舟越桂 森へ行く日〉彫刻の森美術館 会場風景より

 2003年の時点で、僕は舟越桂の「遅い振り子」(1992)、「支えられた記憶」(2001)、「水に映る月蝕」(2003)、に、その確かな霊性を感じた。

 長崎二十六殉教者記念像で有名な父・舟越保武は、敬虔なカトリック信者でもあり、息子の桂も洗礼を受けている。実は、東京都現美での個展の前年に、父・保武は他界している。
 もっとも桂が、彫刻家の二世としての呪縛から解き放たれ、開眼するきっかけは、1984年の「森へ行く日」という作品の造形的な表現の変化が見られるところから始まる。

 戦乱の世のキリシタンの悲劇像を時代を超えて刻んだ父、その巨大な壁と、自分には相入れなかった80年代という時代の潮流。
 そんな中、1984年の「森へ行く日」に現れた「実際に生きている人間とは別物」のある種の「不気味」さの造形的特徴は、その時代に刻まれた奇跡的な痕跡と言える。

参考資料:舟越桂「森へ行く日」1984 東京国立近代美術館
https://www.momat.go.jp/magazine/108

彫刻の森美術館 開館55周年記念「舟越桂 森へ行く日」
2024年7月26日〜11月4日 箱根 彫刻の森美術館・本館ギャラリー


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