見出し画像

拝啓、電車で何もしていないみなさまへ

通勤で利用する電車は、そこそこ混んでいる。

乗車時間約40分。
当方調べによると、そこに居合わせる人の内訳は概ね以下のような感じだ。(あくまで個人の体感である)

*スマホを触っている人:7.5割
*音楽を聞いている人:1割
*寝ている人:0.5割
*本・新聞を読む人:0.5割
*おしゃべりをしている人:0.3割
*何もしていない人:0.2割

ちなみに私はこの中でいうと「音楽(時にラジオ)を聞いている人」であることが殆どた。

乗り鉄大好き人間なのに、なぜか満員の通勤電車だけはスマホや本を見ると酔ってしまうので控えている。
本当はnoteの記事を書いたりしたいが、オエオエ言いながら職場に行くのはごめんだ。

ここで私がいつも注目しているのは、「何もしていない人」である。
「何もしていない人」とは、スマホも本も見ず、耳にはイヤホンもなく、特に手足も動かさず、ただただ座っている、または立っている人である。

数少ない「何もしていない人」を見つけては、「あの人、何もしてはらへんわ」と思いながら視界の端で眺めている。(電車で何もしていない皆様、ごめんなさい。「趣味は人間観察です」とか斜に構えたことを堂々と言って周囲の人々を困惑させることなどないよう普段から心がけておりますので、どうかお許し頂きたい)

何もしていない人々は、「これをしている」というラベルの外側で、ただそこにいる。
ぼんやり今日のごはんのことを考えているのかな、とか、仕事のこと考えてはるんやろか、とか、こちらの想像力を駆り立てる。
纏う空気に余白がある。気がする。

「何もしていない人」は、なんだか魅力的なのだ。


スマホが普及し始めてから、電車で「何もしていない人」は少なくなった。

おそらく一昔前であれば「何もしていない人」はわりと多数派だったのかもしれない。
今は省スペースで自分だけの娯楽を嗜むことができ、時間の隙間を埋める手段に困らない、良き時代になったのだなぁと思う。
しかしそれと同時に、人々の余白も減っているようにも思う。

とはいえ、人間が「何もしていない」状態を保つのは案外難しい。

「何もしていない人」をチラチラ見ていると、実は何もしていないわけではない。
厳密に言えば「爪をいじっている人」だったり「窓の外を眺めている人」だったりする。


だいぶ前、鶴瓶の家族に乾杯で、ゲストのピース又吉さんが瀬戸内海の島を旅をする回の中で、何もせずに海を眺めていた方と「何もしてないって、実は全部してるとも言えますよね」というようなことを話していたのが印象に残っている。

そんなところから考えを発展させると、「何もしていない人」とは、頭や心が比較的「ひらいている人」とも言い換えられるのかもしれない。

耳を塞ぐことなく、目線を何らかのコンテンツに支配されることもなく、ただそこにいる。

感覚の通気口がひらいている人。
なぜだか心惹かれる所以はそんなところにあるのかもしれない。


電車の中は自由な空間だ。
好きに自分の時間を過ごせばいい。
何かをしてもいいし、何もしなくたっていい。
(痴漢や迷惑行為、犯罪行為などは自由への侵略とすら思うので本当にやめてほしい。)

混んでいる通勤電車はあまり好きではないけれど、たまには自分も世界を閉じすぎることなく「何もしていない人」でいることで、余白を持てあまし、五感をひらき、ただそこに存在しながら片道40分を過ごせたらいいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?