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厄年とわたしの断面図

私は平成3年生まれ32歳の女なので、今年は本厄、しかも「女の大厄」であるらしい。

30代が多い我が社は社員6名のうち、なんと4名が何らかの厄年とのことで、年始は厄だ厄だと大騒ぎであった。

私は当事者のくせにどうもぼんやりしていて、

まぁ、毎年嫌なことは山ほど起きるし、というか慢性的に憂鬱であるのだし、季節の変わり目は辛いし、暑いのも寒いのも辛いし、つまり年間通してずっと辛いから、別にいつも通りで、何なら普段は自罰的になりがちな日常の不調や不幸をぜんぶ厄のせいにしちゃえばいいので寧ろボーナスチャンスなのでは?
不届者のわたくし

などと、前向きなんだか後ろ向きなんだかよく分からない心持ちで受け流していた。

そのように大いに舐め腐った態度で厄年を迎え、記憶をなくすほど忙しい2-3月をやり過ごし、すっかり厄のことなど忘れ去り呑気に春の訪れを感じていた。


だがしかし。
年度末ということで大急ぎで駆け込んだ健康診断で、引っかかってしまった。
腫瘍が見つかったのだった。

そして、すぐにMRIで検査を受けるように通告され、あれよあれよという間にバカでかい筒状の機械の中で横たわっていた。

まさに本厄っぽいイベントの到来である。

ヘッドホンの気休めジブリオルゴールメドレーもかき消すほどの大きな機械音の中、30〜40分微動だにせず、「私の体で一体何が…?」というままならない気持ちで過ごす時間は、なかなかの地獄であった。

かつてうちのじいさん(故)が、よく爽やかに「MRI受けてきたわ〜」と言っていたので、あの筒の中をしゃぶしゃぶのようにサッと通されるだけのものと勘違いしていた。

バカでか筒の中でほとんど泣きそうになりながら、全然違うやないかじいさん、でもよう頑張ったなじいさん、と、もうこの世にいないじいさんを恨んだり労ったりしながら過ごした。


終わって立ち上がる時、検査技師さん?の「ゆっくりでいいですからね」の言葉にいよいよ涙が溢れた。でも大人だから引っ込めた。

そのことを友人に報告すると、「やっぱり厄年…」と言われ、そこでようやく厄年のことを思い出し、そうか、厄のせいか。と、暗澹たる気持ちが少し楽になった。


そして今日、結果は悪性ではなく、ひとまず経過観察ということを告げられた。
結果待ちのここ数日「ま、見つかっただけ良かったわ!」と気丈ぶって過ごしていたものの、やっぱり生きた心地がしなかったのだと思う。

生まれて初めて目にする自分の断面図。

いろんなものがみちみちに詰まっていて、植物みたいに左右対称で、でも見つかった腫瘍のせいでちょっと歪に非対称になっていて。
率直に、人間はすごいな、と思った。


そんな不思議な画像を見て、お医者さんからの説明を聞きながら、いちごサンドのことを考えていた。

この季節になると毎年、ちょっとだけいちごが安くなるので、ふかふかの食パンで、自分でいちごサンドを作って食べるのだ。

断面=萌え断的な安直な発想と、恐るべき食い意地に恥じ入るばかりだが、きっとすごく安心したのだと思う。

「健康が全てではないが、健康がないと全てはない」という、高3の時の担任の先生が教えてくれた言葉が頭をよぎる。そうでもないやろ、と思いながら聞いていたのを思い出す。


厄。
そこに科学的根拠はないとWikipediaにも書いてあったが、何らかの曲がり角的な概念であることは間違いがないようだ。
「昔からいろんな人の経験に基づいてなんとなく信じられてきたこと」は馬鹿にはできない。それは生活の知恵でもあるからだ。

まだあと9ヶ月もお世話になる厄。
一生のうちのそう多くはない巡り合わせなので、大きすぎる災厄に飲み込まれないよう祈りつつ、日常の出来事の言い訳や答え合わせとして、存分に甘えさせてもらおうと思う。

厄年なんだから、せめてこの週末はいちごサンドをたらふく食べたいものである。

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