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足場に寄せて

ただの巡り合わせではあるが、いわゆる観光名所といわれる場所に行った時、その場のシンボル的な建造物(旅行雑誌の表紙に載るような場所)が、改装工事中や修復中であることがなんだか多い気がする。

私は街ぶらや散歩目的で出かけることが多く、観光名所的なものにはあまり執着心がない。
なので、そういった場所にはついでに立ち寄る場合がほとんどで、見られなかったからとて「せっかく来たのに」と、ダメージを負うことはない。

むしろ、修復をするために組まれた足場が本当に立派で、そのデカさに圧倒され、それが組み立てられるプロセスに思いを巡らせ、そこで作業を行う人々を目で追ったりと、視点を変えてずっと見つめている。
さながらブリューゲルのバベルの塔を鑑賞してる時みたいだ。

なんというか、「生きながらえる」ことのリアリティを感じられて、安心感を覚えるのかもしれない。

そうだよな、堂々たる名所としてあり続けるためには、緻密なメンテナンスが当たり前に必要だよな。と。

今日もなんとなく気分転換で神戸の方へお散歩に出かけたら、メリケンパークのポートタワーが巨大な足場と化していた。

昨年末に人生で初めて行った厳島神社の大鳥居もまるごと大足場となっていた。

過去に圧巻だったのは、清水寺の木の足場だ。この時ばかりは足場を目的に訪れた。ちなみに平常の清水の舞台は写真でしか見たことがない。

この他にも行った先々で、本来見られるものがメンテナンス中で見られませんでした、ということが多い私であるが、
たまたま出会ったり再会する人間も同じく、人生のメンテナンスのフェーズにいることが多い気がするのだ。


例えば、仕事等で何らかのつまづきを経験して休職中だとか、退職して少しお休み期間に入っているだとか、次の道を模索中だとか。

旅先で出会う人、仕事関係で出会う人、学生時代の友人、様々な方面の人がいるが、決して社交的でも交友関係が広いわけでもない私がこれだけ鉢合わせるということは、人間というのは結構な時間をメンテナンスや準備に費やしているのではないかと思う。

当人は苦しみの最中にいたり、わりと楽しんでいたりと状態は様々であるが、その時でしか知り得ることができない相手の強さや弱さを垣間見たり、または、その時でしか通わせられないお互いの言葉もある。

月日を経て再会した時、足場がすっきりと解体され、自分のペースで人生を歩み始めた相手に会えるようなこともある。


私自身も、立派な足場を組んで外の世界から身を隠し、平成の大改修をおこなっていた時期もあった。
今は日々の傷をちまちまと養生テープやらでどうにかこうにか補修してなんとか平常運転できているような状態である。

堂々と完璧な姿を見せられなくたって、足場を組んで工事することがあったって、それはそこに長く立っていられるために必要不可欠な営みだ。

そんな状態に対して、自他ともに寛容であることと、味わい深さを感じられるアンテナをずっと立てていたいなと思いながら延々とお散歩を続けた休日であった。

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