ピザーラのために今日も
ピザーラのバイクが、私を追い抜いていった。
・・・
なんだろう。この敗北感は。
坂道をのぼる自分の足が、ピザーラのバイクに追い越されて、さらに重たくなった気がする。
出来立てのあつあつ絶品ピザに、せいぜい電話をかけたくらいの労力でありつける人が近くにいる。
私はこんなに苦労して坂をのぼった挙げ句、これから夕飯の支度をするというのに。
なにに対する対抗心なのかわからないけど、そう思わずにはいられない。
どうしてくれるのだ、ピザーラ。
どうしてくれるのだ、ピザーラを注文したご近所の誰かさん。
すっかり夕食をつくる気力が萎んでしまった。
さっきまでは気にしていなかったのに、
「ああ、自分は何をやっているだろう」
そんな弱音に、脳内が蝕まれている。
自分は必死になって闘っているつもりなのに、
側(はた)から見たら、それは子どものチャンバラ程度の、お遊び試合に過ぎないと気づいてしまったような感覚。
一度気づいてしまうと、気づかなかったときの感覚には、もう戻れない。
さりとて。
チャンバラ上等である。
(と、思ってみる。強がりである。)
手早く手を洗って、髪をまとめて、エプロンをつけて、台所に立つ。
あとはただ、やる。
やってやって、ただただ、つくっていく。
夕食との闘いは、気づけば勝手に始まってしまうんだから。
ならジタバタせずに、淡々と、着々と、黙々と、進めてしまえばいい。
適当に、チャンバラしていればいい。
仕事終わりのクタクタの体で坂道をのぼり、クタクタの体で夕飯をつくる。
特別ほめられることでもないし、たしかに体は疲れているけれど。
それでも料理とチャンバラしていて、満足感は、あるじゃないか。
野菜をカタカタ切っている自分って、フライパンを握っている自分って、なかなかかっこいいじゃないか。
そうだ。腹の中では、ニヤニヤしている。
ピザーラを注文したご近所さんよりも、いまの私は闘っているのだという、自負がある。
なにと闘っているのかは、やはりよく分からないけど。
なにかに勝てば満足感が、
なにかに負ければ罪悪感が残る。
私がピザーラを頼むときは、自分の勝ちが続いたときにしようと思う。
せっかくのピザーラは、「逃げ」じゃなくて「ご褒美」でいてほしいからね。
なんなら私は、ピザーラをご褒美にするために、
今日も料理とチャンバラしているのかもしれないなあ。
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