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きわダイアローグ02 渡邊淳司×向井知子 4/4

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4. 触った向こうに一体何があるのか

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向井:わたしは、『ブレードランナー 2049』*1 が、ものすごくよくできている映画だと思ったんです。まだご覧になっていないようでしたら、渡邊さんも面白いと思われると思うのでぜひ観ていただきたいのですが……。あの世界の場合にはもうほとんど人間がいないんですよね。主人公であるアンドロイドのパートナーも、投影されている女性で、生身ではないですし。生命が存在する上でのアイデンティティとは何なのか?人間社会以後の話がされているような感じがあります。でもそれは、必ずしも未来の話ではなく、すでに起きていることだなとも感じるんですね。すでにロボットのペットなどもありますが、もしすでに、我々が人工的なものを生きているもののように捉え、デジタルを身体の一部として感じ始めているのであれば、そのなかでのイメージの描き方や、配信や提供の仕方が、ものすごく重要になってくるのではないでしょうか。わたしたちのイメージの仕方、向き合い方によって、これからの環境や世界が変わってしまう可能性があると考えたりしているんです。イメージと身体の関わりについて、話が少し飛ぶのですが、わたし自身は「こんなに筋肉のない人見たことない!」と言われるくらい、運動ができないんですね。でも、あるヨガの先生に身体を触れてもらうと、自分の筋肉をどう動かしたらいいのかがわかるようになるんです。それは、わかった気になっているだけかもしれないのですが、その先生は「合っている」とおっしゃる。あくまで感覚的な例え話なのですが、先生曰く「普通の人が筋肉量100%のところで、40%くらいのパフォーマンスしか上がっていないところを、あなたは50%の筋肉しかないのに80%のパフォーマンスでやっている感じがする」と。こちらの感覚で思いあたるものがあるとすると、もし本当にできていると仮定するならば、彼女が触ったときの感覚が、知覚的に映像をつくっているときの感覚に似ているからなんです。

渡邊:なるほど。それについてもう少し聞いていいですか。

向井:すごく感覚的な話になりますけれど、わたしは映像をつくるとき、いわゆる絵コンテのようなものではなく、空間的な体験のノーテーション(記号符)を描いています。スポーツ選手がイメージするのと似ているのかもしれません。そのノーテーションの状態にまでどのように持っていくかということを想像しながら逆算しているわけです。「向こう側から見たときに、こういう流れの、こういう体験が出てくるためのインターフェイスにするにはどうすればいいのか」ということを考えています。具体的に描写されるモチーフが問題なのではなく、スピードやエネルギーを感じながら映像に起こしていくのですが、それが、先ほど申し上げた先生に触ってもらっているときの感覚に近いんです。

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線と手のノーテーション:向井知子、手話によるノーテーション:吉田由梨
「きわプロジェクト」より

触れることを通して、逆に身体的なイメージというか、どこに流れを持っていけばいいのか、どこに体の方向性が向いていけばいいのかがわかる。ヨガの先生にも、どのようにその流れを誘導するかという触り方、おそらく、触ってみた際に見えてくる、手順や組み立て方が流れとして先生の中で身体化されている。そのため、彼女に触れられたときには、彼女が思い描いたイメージをわたし自身も辿るようにイメージを追うことができるのではないかと思います。わたしは、スポーツこそやっていないですが、別の形で、イメージを身体化する作業をしているので、それが結びついているのかもしれないなと思ったんです。渡邊さんの『情報を生み出す触覚の知性:情報社会をいきるための感覚のリテラシー』のなかで取り上げられている触覚の譜面の話もすごく面白いなと思いましたし、わたし自身は映像の側から身体性をどうやって喚起できるかっていうことを考えているので、渡邊さんがされているような「触れることでイメージというものをどれだけ喚起できるのか」といったところに非常に興味を持っています。

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渡邊淳司
2014年、化学同人

渡邊:触覚と言うと、表面のテクスチャーを感じるということに注目しがちですが、「触った向こうに何があるのか推測する」という間接的な触覚も重要だと思っています。触診もその一つです。お医者さんは表面の皮膚を触っているけれど、実際に探しているのは皮膚の奥にある病巣であったり、しこりであったりします。実際に目の前に現れているものの背後のメカニズム、構造みたいなものに対して、どう触れていくのかといったことのほうが、触覚の本質なのかもしれません。記号的でもあるとも言えます。その記号の背後にある意味の世界を、どういうふうに肌触りとして理解するのか。お話を伺って「間接触覚」はやはり大事なのかもしれないと強く思いました。

向井:触れることを仕事にしている方ってすごいですよね。昔、指圧の先生に触診をされているとき、こちらが考えごとをしていて考えが切り替わった瞬間に「何?」と聞かれたことがあります。それにはすごく驚かされました。どうやら、触ったところからその人の「何か」がイメージとして伝わっている。だから、触診には具体的なイメージがあるんでしょうね。それから、鍼の先生も、触知ということをよく知っていらっしゃるなと思います。例えば「手が痛い」と訴えたときに、手とは一見関係のないようなところに鍼を刺す。そうすると本当に痛みが取れてしまうんです。予兆としてのツボという記号が、「どことつながっていて、今どうなっている」という状態の構造をちゃんと教えてくれるのでしょうね。

渡邊:そうですね。触覚は表面の感覚というよりは、因果をまるっと身体で感じるものかもしれません。だから、未来の予兆、過去の痕跡でもあるのでしょうね。

向井:少し話が戻ってしまうのですが、今の20代の人たちと話をすると、また新しく別の身体性みたいなものが生まれてきているなと感じるんですね。ゲームの空間での体験や、アバターである自分のほうにものすごくリアリティを感じていたり、バーチャリティのなかでの体験が、実際の空間のほうに出てきていたりしているんです。
大学に勤めていたときに、あるとき、映画が大好きな学生が「SFを観ると、未来がすべて悲愴感に溢れている。どうしてそのようなイメージしか描けないのだろうか」というようなことを言ったことがあったんです。もし人間がもっと未来に対して、心の問題やポジティブなものを、AIやアンドロイドに思い描ければ、そこから開発されているものは変わってこないんだろうかと。それで、保育園の子どもたちと「ハートのかけら、ロボのかたち」というワークショップをやったんです。まずは子どもたちに、自分がロボットをつくるときに、大切に思っていることは何なのかを、ハートのカードにたくさん書き出してもらいました。そして、自分のロボットの心のなかに入れたい一つを選んでもらい、それを紙に書き、子どもたちには小さな四角い箱に、各自が書いた紙を入れてもらうんです。それから、その箱を胴体にして、頭などの造作をしてもらいました。第2回目のワークショップでは、自分のロボットと一緒に何をしたいかを子どもたちに聞きました。そうすると、みんな「踊ってみたい」とか「こんな遊びをしてみたい」といったことが出てくるわけです。我々がちょっと心動かされたのは、一人の女の子が、「この子の面倒をみたい」と言ったこと。そこには、ロボットに対しての愛着や愛情があって、自分と対等である存在を重ねているわけです。『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』にも、ともに生きるものとして、弱いロボットの話が出てきていましたね。そういうイメージが育ってくると、もしかしたら、AIやアンドロイドを実際に生み出していく上で、別の想像力が生まれるかもしれないと思うんです。

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ワークショップ「ハートのかけら、ロボのかたち」
監修:向井知子、企画:西村祐馬・蓑手優、協力:根岸拓哉(まちの保育園 小竹向原)
ワークショップシリーズ「未来へのおくりもの」まちの保育園 小竹向原、2016年

渡邊:まさに、イメージによって現実の世界が変わるというのは重要ですね。物理世界の自己と情報世界の自己を別の自己と考えるのではなく、「われわれ」と捉える。どっちかがどっちかを制御するのではなく、それらは共同行為をしていて、物理世界と情報世界は交差しながら自己を構成しているのだと。
僕はそんなにYouTubeを見るほうではないのですが、今、一緒に何かをしているような気持ちになる動画、「with me」動画と呼ばれるようなものが多くあります。例えば、一緒にご飯を食べている動画や、勉強している動画。そういった動画を目の前のモニターで流しながら、一人でご飯を食べるといったことは、今わりと普通に起きていることだと思うんです。映像の向こう側の人が、生活というか生きることのなかに組み込まれているんだなあと。

向井:渡邊さんが現在具体的に感じられていることについて、どういうふうに置き換えるのか、形ににしていくのか、など、今後のアイデアはすでにお持ちなのでしょうか?

渡邊:そうですね。今までSNS上で、映像やテキストによって行われていた親しみや信頼、「われわれ感」の醸成のようなことが、触覚でもできるようになると思います。これは、コロナ下もしくは、それが続く、次のコロナが生じる世界において必要なことだと思っています。そして、これまでは、一対一で人を結びつけるのが触覚だと考えられてきましたが、もっと多くの人、一対多、多対多のなかで、人と人の感覚が結びつけられるのではないかと思います。具体的に何だと言えるわけではないのですが、コミュニケーションだけでなく、場のための触覚をオンラインでも共有できるようになるのではないでしょうか。

向井:インターネットの世界で人を一方的に非難したり、炎上したりということが起きるのは、生身の自分とネット上の自分を切り離しているから生まれている現象ですよね。切り離された他者を傷つけても構わないというか。渡邊さんが今おっしゃったようなことが実現でき、現実とネットの中は一緒ではないのだけれども、ヴァーチャルな自分が現実の世界に関与していると感覚として理解できれば、痛みをもう少し自分事として捉えられる。そうなれば、ネット上のコミュニティのあり方についてももっと考えらえるし、遠くのものであっても、何か柔らかな前向きさで、つなげられる可能性もあるかもしれません。

渡邊:まさに、テクノロジーを利用して本当に痛みを感じられるようになったとしても、自己と他者が切り離されたマインドでは、向井さんがおっしゃるような問題が解決されるかはわかりません。そして、物理空間ありきで、情報空間をサブのように捉える感覚だと、サブのほうは「どうなってもいいや」「ここでなら何をしてもいいや」という扱いになってしまいます。物理空間も情報空間も包摂的に捉える「われわれとしての自己」のように、考え方のOSもしなやかに変われるといいなと思っています。
これまで自分がやってきたインフラとしての触覚テクノロジーから、近年のウェルビーイングに関連する自己観や価値観についてまで。
お話しをしていて、何だか一緒に面白い旅をしている感覚になりました。とても楽しかったです。

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渡邊淳司(著)/内村直之(ファシリテータ)/日本認知科学会(監修)
2020年、新曜社

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*1『ブレードランナー 2049』
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原案に、1982年に制作されたSF映画『ブレードランナー』(監督リドリー・スコット)の続編として、2017年公開。第90回アカデミー賞で2部門を受賞している。

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