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きわダイアローグ02 渡邊淳司×向井知子 1/4

1. 世界の捉え方:総体としての自己

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向井:きわプロジェクトメンバーの物理学者 スヴェン・ヒルシュは、今日のグローバル社会において「コレクティブ」な視点から世界を俯瞰しようとする背景には、「デジタリティ」に基づく考え方があると言います。渡邊さんのご著書『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』のなかでも、IとWe、SocietyとUniverseという世界の捉え方のお話がありました。

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渡邊淳司 ・ドミニク チェン(監修・編著)/安藤英由樹・坂倉杏介・村田藍子(編著)
2020年、ビー・エヌ・エヌ新社

ヒルシュはグローバル社会の発展の裏には、すべてをものすごいスピードで0か1に分化し細かく定義しようとする離散的な思考方法があり、それがわたしたちのなかにも身体化されているのではないかとも言います。ものごとを限りなく細かく解釈しようとする思考性は、近年のダイバーシティに対する認識においても見受けられると思います。例えば、セクシャリティ、障がいといった、人間の多様性についての理解は、一見、深まったようにも見えます。しかしその一方で、それはわからないものをすべて、細かいカテゴリーに定義することで理解を求めているだけで、各個人それぞれがどのように世界を捉えうるのかといった感覚、知覚、認識の多様性については、おざなりにされているようにも思います。
それらのことをふまえて自然の一部としてのわたしたちが、それぞれの知覚というものを認め、開発していくことで、自分と自然(環境・世界)との関係、捉え方を見出していくことについて、渡邊さんにお話を伺いたいと思ったのです。

渡邊:『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』に論考を寄稿いただいた、京都大学の哲学者、出口康夫先生は、「わたし」イコール「自己」ではなく、「わたし」を含め行為に関わる身体や道具、他者、自然などの総体(「われわれ」)を「自己」として捉える、「われわれとしての自己」という概念を提唱されています。この概念では自己が拡張されただけでなく、「われわれとしての自己」は「わたし」に対する委ね手であると考えます。つまり、“「わたし」が生きる”と「わたし」を起点に考えるのではなく、“「わたし」は生きることを委ねられている”と捉え直した自己観です。
現在、私は出口先生との共同研究に参加しているのですが、出口先生の「われわれとしての自己」という哲学の概念を、心理学的方法論で捉えることに取り組んでいて、質問紙やピクトグラムを使って「われわれとしての自己」を指標化することを行なっています。質問項目の例をいくつかあげると、「自分の属するチームが成功したときには、自分のこととして喜びを感じるほうだ」「チームの取り組みで得られた成果はチームの成果であって、誰か個人の貢献に還元できないところがあると思う」「自分は自身で生きているという感覚と同時に、自分以外の誰かや何かに生かされていると感じることがある」というもので、合計22項目あります。これらの自己と全体との関係性に関する質問に対して、「とてもそう思う」から「全くそう思わない」の7段階で回答します。
また、ピクトグラムでは、「わたし」と「チーム」の関係性について、大きな丸を「チーム」(これは「環境」「世界」などと言い換えてもいいのですが)、小さな丸を「わたし」とし、その丸の重なり具合を変えた図を12種類用意して、「わたし」と「チーム」の関係性がどれにあたるかを選んでもらいます。例えば、下図の(1)のように、小さな丸が大きな丸の外に隣接してあるような場合は、「わたし」が「チーム」から独立した状態だと言えます。一方で、(4)のように、小さな丸が大きな丸の中にすっぽりと入っている場合は、自分が全体の一部となるものです。このとき、チーム全体の結びつきが強い(丸の輪郭が太線)とすると、「わたし」が全体に制御されるような関係性、つまり「わたし」が全体の道具になってしまうことになります。一方で、(8)や(12)のように、全体の結びつきが緩やか(丸の輪郭が細い実線や点線)であると、「わたし」が全体と一体でありつつ、「わたし」の自律性が保たれた状態であることになります。さきほどの「われわれとしての自己」に近い状態です。

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「われわれとしての自己」を評価する --Self-as-We尺度の開発-- 
渡邊淳司、村田藍子、高山千尋、中谷桃子、出口康夫
京都大学文学部哲学研究室紀要 : PROSPECTUS (2020),20: 1-14 図2より引用

向井:つまり、クローズしているのではなく、かぎりなく連続体として拡張していくという考え方だと捉えてよいのでしょうか?

渡邊:そうですね。自己がどんどん広がって、「わたし」も「身体」も「道具」も「他者」も「自然」も、すべてが自己であると。ただし、出口先生の提唱する自己の概念は、単に拡張していくだけでなく、二重性を持つというか、拡張した自己が「わたし」に委ねるようなイメージがあるのだと思います。「わたし」は、主体的に行動するのと同時に、自己によって動かされるものでもあると。また、ここで出てくる「わたし」は、一人とは限りません。現実世界の「わたし」もあれば、ネットのなかの「わたし」もいる。もしくは昨日の「わたし」と今日の「わたし」。「われわれ」という総体である自己が、これらさまざまな「わたし」を含む物語を紡ぐ役割を担うのです。そうすることで、さまざまな「わたし」、それに関わる他者や社会とも包摂的に関わることができるのではないかということです。

向井:総体としての「わたし」や他者の捉え方といったときに、数年前にNHKスペシャル「自閉症の君が教えてくれたこと」で取材を受けていらっしゃった、自閉症の作家の東田直樹 *1 さんの「人の一生はつなげるものではなく、一人ずつが完結するものだと思っています」という言葉に、感銘を受けました。東田さんは、体をコントロールできないため、会話ができないのですが、手を使って文字盤をなぞったりパソコンを使ったりすることによって、自分の気持ちを表現できるそうなんです。それを拝見したときに、人間が持っている知覚の豊かさや潜在性には、どれだけまだ知らないことがあるのだろうかと思いました。文字盤をなぞるとか、キーボードを使用するといった、知覚のアウトプット方法を新しく発想したり、テクノロジーを活用したりする。それらを通して初めて顕在化する、まだまだ知らない個人の感覚が存在する。そもそも、人にはそれぞれの知覚特性に合わせた固有のアウトプットの形があってもいいはずです。各個人の感覚の複合性は、必ずしも周囲にすべて見えているわけではありません。東田さんの場合にも、ご著書を読むと、人間と自然の関わりについて、とても深い直観をもって観察されていると感じますが、それは通常のコミュニケーションからは推し量ることのできないものです。一見、東田さんの「言葉」の伝え方は汎用性のない特殊な方法のように思えます。しかし、例えば、「言語」一つとっても、別の言語を使っている同士では、「言葉」はつながることを保証するものではありません。でも、それを裏返せば、他国の言葉やプログラミング言語などの別の言語体系に触れたとき、同じ人であっても、通常使用している言語ではアウトプットされることのなかった感覚が表現可能になります。その人自身の別の立体性が生まれてくる。そのようなことは普通にあることだと思うんです。人間は、そういった多重性みたいなものを持っており、そこにテクノロジーが上手く介在すれば、一つの角度から平面的に見るだけではわからないその人固有の知覚の仕方や、その知覚による世界の捉え方も表出してくる。その人の感覚の豊かさを、立体的な層で捉えてみれば連続的で複合性を持った総体である個が見えてくるかもしれません。

渡邊:そうですね。向井さんも先ほどおっしゃっていましたが、現在の社会は、つながるとは言いながら、すべては分断する方向に進んでいます。そうやって、どんどん分ける方向に進んでいったときに、どうやって自己や世界を連続体として捉える形をつくればいいのだろうか?と思っています。例えば、物理世界と情報世界にいるさまざまな「わたし」を含む、全体としての自己の物語、もしくはその意識をどのようにつくればいいのだろうと。そして、このとき、触覚的な体験は、その背後にあるつながりを実感するきっかけになるのではと思っています。

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*1 東田直樹(1992年~)
千葉県出身の作家・絵本作家。代表作『自閉症の僕が跳びはねる理由』は13歳で執筆し、 現在は30カ国以上で翻訳され世界的ベストセラーとなっている。

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渡邊淳司(わたなべじゅんじ)
NTTコミュニケーション科学基礎研究所人間情報研究部上席特別研究員
専門は触覚情報学。主著に『情報を生み出す触覚の知性』(毎日出版文化賞(自然科学部門)受賞)、『情報環世界』(共著)。触感コンテンツ専門誌「ふるえ」編集長(NTT研究所)。近年の活動に、スポーツの非言語的翻訳やウェルビーイングに関する研究がある。

向井知子(むかいともこ)
きわプロジェクト・クリエイティブディレクター、映像空間演出
日々の暮らしの延長上に、思索の空間づくりを展開。国内外の歴史文化的拠点での映像空間演出、美術館等の映像展示デザイン、舞台の映像制作等に従事。公共空間の演出に、東京国立博物館、谷中「柏湯通り」、防府天満宮、一の坂川(山口)、聖ゲルトゥルトゥ教会(ドイツ)他。

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