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きわダイアローグ03 スヴェン・ヒルシュ×向井知子 2/2

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2. デジタリティ

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ヒルシュ:それからもう一つ、「なぜわたしが、身体とデジタルについて話をしたいと言ったか」についても、向井さんは尋ねましたね。われわれには「外界と内面」「あなたとわたし」、「自然と人間」というように類型を分けて処理する思考が非常に強く刻み込まれています。これとあれを分けるといったように、とても分類的な考え方をしますが、これは全体的な体系と矛盾することでもあります。例えば、アボリジニの人々の社会に生きていたら、木々が変容することを知っており、それらを切り離すという考えにはいたらないはずなのです。

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ドイツ・ケルン市近郊の森、ケーニッヒフォルト(Königsfort)、2017年
撮影:向井知子

そのような近代的な考え方は、分離(分化)することから発展しており、デジタリティ(Digitalität)においても同様で、ものをどこかで切ったとしても、そこには1か0しかなく、それは「内」か「外」かということしかないのです。前述の自然に関する問いと、どのように我々が世界を見るかということ関連させて考えた際に、「身体と身体に起きていること」について理解したいと思っているのです。それ(近代的思考が分化から発展しているということ)が基礎にあると思っているので、ここではデジタリゼーションという言葉は使いません。デジタル的な考え方はデジタリゼーションよりも前からあったからです。

向井:自然との関わりについて、わたしはそう言い切れないところがあります。というのは、日本人の考え方には、いつも「間」という考え方があります。自然との関係においては、例えば、庭と家の間に縁側のような部分が必ずあったわけで、そこは、自然に対する西洋的な考え方とはちょっと違うと思うのです。しかし、デジタリゼーションに関することで言うと、最近、20代の人と「デジタルがアナログに近づいている」ということを話しました。それは、その人のアナログの身体自体に、われわれの世代とはすでに異なるアナログの身体性、デジタリゼーションが含まれているということだと思ったんです。

ヒルシュ:仮想化(Virtualisierung)することと、デジタリゼーションということは、分けて考えなければならないと思います。向井さんたちが話していたことは、仮想化の話で、それはサイバネティックな世界、インターネットなどにみる接続の世界の話のことですよね。今日では、デジタリティとデジタリゼーションという概念は、ほとんど同じように使われることが多いのですが、デジタリゼーションというのは、もともと技術的にコンピュータ化されることを指し、デジタリティというのは、離散的な状態から生じる思考の構築物のことです。離散的(diskret)というのは、0か1かと明確にすること、1、2、3と数で分けることです。世界は連続体からなっているという見方と、世界は離散的であるという見方があります。この離散的な世界というのが、デジタリティです。これは、大きな還元主義であり、古典的な見方で連続を記述することは難しいので、これとこれとこれ、と簡単に選んで記号化(repräsentieren)してしまうのです。より縮減された状態に記号化して、近似であるから良しとしているのです。このデジタリティというのは、つまり離散的な考え方ということなのですが、その反対が連続体で考えるということです。しかし、連続体として考える思考方法はとても難しいものです。どこで分化したらよいのか、どこが身体の変わり目なのか、自分の身体とそれ以外をどこで分けるか、物質として離散的に変わり目を判断することは、本来できません。例えば、それは家についても同じですよね。どこが壁で、どこが外で内なのか、庭はどうなのかといった計画を立てる際に、人工的に分けることは本来できません。離散的に考えて分化することはできますが、実際には離散的分化は存在しないのです。何かを人工的に構築する際に、この離散的考え方が、どのようにわれわれの身体と衝突するのか。それを自然に対する経験と置き換えて考えると、向井さんが言っていた仮想化は、デジタリゼーションに適合した道具・手段であり、その離散的なありさまは、現実にはそうであるはずがないのに、そうであるかのようにつくられているものです。このような離散的な考え方は、われわれの物事の考え方に、とても大きな影響を与えていると思うのです。例えば、アプリに「わたしは男性、女性のどちらですか」と聞いたとします。でもそういうことではなく、少し男性で、少し女性で、あるいは3つのX、4つのY、6つの……といったようなことですよね。

明確なカテゴリーに当てはめて考えようとすること、細かく綺麗なカテゴリーを持つこと、人はカテゴリーで作業しようとする傾向が大変強いといった、デジタリティについて、わたしは考えています。そして、このデジタリティは、われわれの生活における考え方に、無意識に入り込んでいると思うのです。

向井:それはとても興味深い考え方ですね。実際、社会のなかで難しい問題になっていることとして、例えば日本でも、ようやくセクシャリティを男性か女性かという二つの性別だけで捉えないという考え方はが出てきましたが、結局はより細かくカテゴライズすることによって理解したことにしてしまうといったことがあると思うんです。また似たような象徴的な例としては、ADHDやアスペルガーといった発達障害なども症候群で診断され、名前をつけられたりしてしまうことなどもそうですよね。これらは本来連続体であるのに、細かく分けられて、名前をつけられてしまいますよね。

ヒルシュ:そうです。ある症候群に対して名前があると、急に処理しやすいと感じてしまうのです。そのように想像してしまうということが、とても狂った状態ですよね。診断を受けることで処置することはできますが、最終的には、ADHDのように、自分が想像できるような名前をつけて考えたいと思ってしまうということなのだと思います。「わたしはADHDだから、こうなんだ」と。医者に行っても、「あなたがこうなら、こうだから、こう扱う」という話になってしまう。カテゴライズすることとそのことによって理解したことにしてしまうという関係を、非常に強く内面化してしまっていると思うのです。なぜそれらと「向き合う」「相互的に関わる」という話にならないのでしょうか。そのような傾向が、極端に強くなってきてしまったと思います。いつも、概念を持とうする意志や、物事を正しく完結させようとする、ロジックを持とうとする。これは、デジタリティのロジックによるものだと思うのです。

向井:何かがわからないということに対する不安や恐怖が、大きくなってきているように思うんですよね。不安を持つということは、以前は当たり前のことだったと思います。不安はどこにでもあって、人間は元々いつも不安を持っているものだった。だから、自分自身で感じ取れるという、そのための感覚を持つことが重要だったと思うのです。そのことによって「付き合う」ことができるよう、感じ取れることが大切だった。現代人は、向き合うために必要な「感じ取るためのセンサー」を持とうとはせず、細かくカテゴライズした定義(名前)を持つことによって理解しようとしているのではないでしょうか。おっしゃっているのはそういうことですよね。

ヒルシュ:そのような観点から観察してみると、たとえば、1968年頃や、90年代というのはセクシャリティの解放があって、また同時に性別の違い(距離)が縮まっているようなことがありました。男性が長髪で、女性がショートカットなど、体に対して開放的でしたよね。しかし、今日デジタリゼーションと共存するなかで、再びセクシャリティを閉鎖的に扱うようになってきている。例えば、20年前ぐらいは、プールに行くと、みんなそのあたりで水着に着替えて、泳ぎに出たものです。しかし今日では、上までタオルを巻いて、隠して、着替え終わるとすべて綺麗で、すべてちゃんとしていて、全く間違ったことがない状態になっている。一本でも望んでいない毛が肌に残っているなんてことはないわけです。二枚の布で胸を隠す、ほぼ裸に近いビキニをつけているだけ、また男性も同様で、完全にコントロールされており、それは「Yes」か「No」(正しいか、正しくないか)なのです。以前は、目の前にいる人が、ちょっとセクシャルだから、もう少し「Yes」で、もう少し「No」とか、どちらでもよかったわけですけれど、現代では「Yes」か「No」かということがまずあるのです。そのため、何を見るにつけても、すべて(「Yes」か「No」で判断する)デジタリティ(の考え方)が、われわれとわれわれの社会に強力に組み込まれてしまっているのです。例えば、わたしの息子たちのような若い世代もこのデジタリティ(の考え方)と闘わなくてはならなくなっているのです。性別の問題を考えるだけでも、男女だけではなく、今いくつ性別モデルがあるのか、もうわからないですよね。デジタリティとの闘いは、今どういうものなのか、それがわれわれにとってどういう意味を持っているのかということを追わなければならないと思います。

デジタリティは、規範、基準をつくる力を持っています。常にコンピュータはすごい速さで計算できますよね。それは、われわれにとっては、スーパーイージーな状態です。例えば、あなたに適合する20人分のセクシャリティをあっという間に提案することができます。コンピュータは、大量のデータを駆使することで、パパパパパッと全部カテゴリーに仕分けできてしまいます。しかし、誰かが何らかの基準を決めたはずなのに、誰かが定義したこの相互接続について、もはや突き止めることはできなくなっています。すべてがものすごいスピードだからです。サイバネティクスとは、フルッサーがいう「制御可能である」ということだと思いますが、計算可能なことによって物事を、簡単にすぐに次々とつないでいってしまうという表象(Repräsentation)がずっと強力で、それがデジタリティということだと思うのです。

1990年代を振り返ると、わたし自身、いつもアナログとデジタルの断層の問題がいつも脳裏にあって、それをどのように表現すればいいのか、わたしは苦しめられました。わたしのなかに二つの思考があり、その「狭間の思考」は何かということを、いつも強く意識していました。「狭間の思考」とは、「なぜ切り離して捉えるのか」ということ。みな、それを「情報」というものとして捉えるけれども、ただの「情報」であるわけがないのです。アナログは、デジタルとどういう関係にあるのかということをずっと考え続けていたのですが、その答えを見つけ出せずにきました。その後、(複雑生体システムにおける)シミュレーションを通して、デジタリティに関わるなかで、当時の疑問が急に、回顧的に明確になってきたのです。

向井さんも先ほど触れていたように、当時コンピュータは、本質的にはバーチャリティのために考えられたものでした。しかし問題はそこにあるのではなく、その切れ目の表象にあるのだということが、わかっていませんでした。まさにこの切れ目(Schnitt)、その断層(Kluft)、微細な断層の中に大きな断層が一緒に加わっているのです。世界(を記述するの)にたくさん穴があいているのです。いくつかの点を使い、ここに点があって、あそこに点があってと記述しても、本来はもっとたくさんの点がある。なぜ、いくつかの点だけで考えるのでしょうか。点を二倍に増やしたとしても、さらにもっと点はあります。1000個の点があったとしても、世界を記述するにはまだまだ足りない。ここに連続性と離散性の問題があって、それについて取り組まなければならないのです。

向井:わたしは、もともと数学を勉強したかったんですね。芸術方面に進まなかったら、そちらに進んでいたのではないでしょうか。子どもの頃、0と1の間を考えて、頭が狂ってしまうかと思ったこともあるんです。0と1の間には、ずっと終わりのない連続性がありますよね。

ヒルシュ:そういうことです。数学を見れば、例えば、有理数において、2/3という分数では、たくさんの数を表せますし、途中また実数もあって、一番最小の数まで網羅し知覚することができます。しかし、どういう意味を持っているのかそれを想像しようとすると(難しい)。まず学習するのは、ずっと連続数学であり、そののちに少し統計学的なこともしますけれど、離散的数学は、コンピュータを学ぶときに初めて登場します。数学では、構造として組み立てられていますが、それを現実空間で表象化し、どのように扱うか、この思考を捉えようとすると大変難しくなってしまう。なぜならコンピュータ技術は、信じられないくらい使いやすく、すべてあっという間に処理してしまうからです。すばらしいですよね。すばらしいけれど、われわれにとっては認識することがとても難しいわけです。

「きわプロジェクト」について、わたしが本質的に感じ取っていること、あるいはこのプロジェクトの政治的な役目だと思っているのは、アナログとデジタルの間に何らかのつながりをつくることだと思うのです。音楽が揺れ動き、人々の体に何かが起きていることについては、知覚する必要がないものであり、そこでは、デジタリティが完全に消えている。存在しないのです。このときに強化しなければならないのは、デジタルなものとデジタルではない要素とのつながりを顕在化させることだと思います。

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無観客のトライアル公演「きわにふれる」東長寺文由閣
2020年10月18日
撮影:矢島泰輔

例えば公演では、向井さんが制作した映像を背景に、永田さんが演奏されていますよね。永田さんの演奏は完全にアンチ・デジタリティで、絶対的にノン・デジタルなものです。しかし、向井さんが行なっているデジタルの特徴を持ったもの(ここでは映像)が、ノンデジタルなものと一緒になっていく。それが、わたしが考える、このプロジェクトの政治的課題だと思います。われわれは、その間にある「傷口」(Wunde)や「断層」(Kluft)を、どうにか閉じなければなければならないと思うのです。

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