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きわダイアローグ04 芹沢高志×向井知子 3/6

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3. 不可解さと抽象性

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向井:これまで、わたしは作品制作もしつつ、美術館の研究員や大学教員をしたりと、異なる立場からものが生まれてくることに関わってきました。それは、もともとつくることに対して、やりたくてやりたくてしょうがないというわけではなく、やらないと何かが知れない、そこで得た体得がないと物事が見えないのではないかと強迫観念のように思っているからなんです。最終的には、何かを知るという意味で体にまで落とし込んでくるには、自分自身がつくることしかないのですが、つくるために何かが熟してきたと感じるには時間が必要なので、若い頃は新しく何かをつくりだすにはとても時間がかかりました。そして、ただつくることだけには、おそらく違和感があって、何かが生まれることについて、さまざまな角度から関わることで知りたいということもあったのではないかと思うのです。そのようにあっちからこっちから関わることで、それまではつくることにおいて、完璧にイメージが見えてこないといじれなかったものが、40代をこえてから、いい意味で、やりっぱなしの実験をするようになりました。
それができるようになる上で、教育の現場でつくることに関わったのは大きかったと思います。大学に在職していた時は、学生に対して、わたしからテーマを与えることはしないで、好きなものではなく、興味を持った、自分がひっかかっている絵でも画像でも何でもいいので200枚持ってこさせるという授業をやっていました。200枚を選別するというのは結構大変なんですね。100枚はいける。でも、200枚になってくると、本人が意図しなかった無意識なものが出てきたりする。それら200枚を、アトリエ一面にそれぞれ貼って、みんなでまずは眺める。最初は本人の意図は聞かず、みんなでどう見えたかを付箋で貼っていきます。そうすると、本人が意図していたものは、わりとみんな解釈できるし言えるのだけど、必ず、本人も他の人も解釈できない、よくわからないことが残るんですね。デザイン科で教えていましたが、通常、デザインでは捨てること、取捨選択させることが多いのですが、わたしは捨てないようにさせてました。そうしていくうちに、あるとき捨てられなかった、わからなかったものが、スーッと通ることがあるんですね。この間の対談で、芹沢さんも川の流れの話をされていましたけれど、そのような感じで急にバーッと大河が流れるような瞬間に立ち会うことがあって、それが、いつも感慨深かったんです。

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「200枚」作業中の風景、長塚明加里、2010年
撮影:向井知子
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3年次に取り組んだ「200枚」(左上)から、
卒業制作までのスタディ解決していないものをかたちにしていくプロセス
芳中早百合、2016年〜2017年 
撮影:芳中早百合

この数十年、編集主義というか、よく整理できること、編集のうまさということが重宝されますけど、おそらくもう編集ではダメなのではないかと思っています。よくわからないことを整理してしまわないこと、それを安易に理解してしまわず形にしていく忍耐力を持っていることが大切だと思っています。それは、単になんとなく感覚的にやってしまうということとも対極にあると思います。7〜8年前に自分自身も学生に課したことをやってみようと、同様のことをプロジェクトでやったことがあるのですが、わからないいろんなものに翻弄されることを良しとして、混乱しても残るものがあるということを体験できたのは良かったのかなと思いました。翻弄されても残る何かは、確立とまでは言わないですけれど、自分のなかにあるんだと。それからますます、やりっぱなし的な、実験的なシーンを断片的につなげていくような作品をつくるようになっていきました。今回の「きわにたつ」「きわにふれる」での作品も辻褄を合わせるつもりはないのですが、でも、どこかで辻褄を合わせようとしているという気はしていて、2020年10月にトライアル公演として制作した「きわにふれる」について、それを見たプロジェクトメンバーのスヴェン・ヒルシュは「モチーフが何かはどうでもいいんだよ」と言われました。わたしもそう思っていて、写してきたローカルな場所のモチーフが意味づけを与えがちなんでしょうけれど、わたしという個人が、たまたま出会って見てきた場所の断片をつなげているだけで、重要なのは、どことどこのシーンがスイッチとしてつながっていて、それらの積層になったものが、他の人から見たときに、他の人のスイッチになるかどうか。ただやっぱり難しくて、みんな物語で解釈したがるんですね。それをどうやって外していけるのかなと考えています。10月に行なった「きわにふれる」の映像をご覧になっていただきましたが、率直に、どうでしたか。

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無観客のトライアル公演「きわにふれる」
東長寺 文由閣、2020年10月18日
撮影:矢島泰輔

芹沢:作品の本質の話とはちょっと別にはなりますが、文由閣の空間をよく使ってくれたなあと。あの空間自体が全く違う空間に変わっていくのが、まず新鮮でした。まるで洞窟の中にいるような感覚を持ちました。だからこそ、あの場所で体験したかった。今回、この作品の記録映像は、自分のコンピュータの画面で見るわけです。一応僕は文由閣の空間の体験を知っているから、想像力で補って見ることができたけれど、ディスタンスの重要さをものすごく感じました。今、このコロナ禍で、空間認知の重要さをものすごく感じる日々ですよね。つまらない会議なんかはどんどんオンラインにすればいいと思うけれど、文由閣の映像を見ると言っても、どうしたって自分との距離は、画面までの距離しかない。まず足りないのは奥行きです。われわれは空間認識に関して、目だけではなく、五感をいろいろと使っているから、本来あそこの空間のなかで体感すべきものなんだろうなというのを逆に強く思いました。そのときに抽象度ということが、自分の持った感想と一見すると関係なさそうに見えるけれど、本当は関係があることなのかもしれない。不可解さや抽象性といったものがある場合にこそ、引っ掛かりが生まれる。向井さんの作品は、ある意味、意味がないというか、レッテルの貼られた映像ではないから、抽象度が高いほど、こちらが自分のいろんな引き出しを開けないと、補完できないわけです。具体的な映像だった場合には、非常に固定したものと紐付けされていく。今まで見た、ザ・風景とか、ザ・森林みたいなものや、個人的に得た経験が引き出されてしまって、そこ以上に行けなくなってしまう。だから、抽象度の高いもののほうが、空間体験とは切り離して、何かが引っかかってくるのではないか。自分のなかの何かを引っ張り出すときには、意外と抽象度の高いもののほうが取り出しやすいのかもしれないですね。

向井:やっぱりあの空間って、洞窟みたいなんですよね。洞窟は、人が内面を見て、概念を生み出した空間。内面は、単純に内面なのではなく、外につながっている何か。もともと岩絵もそれと同じような話ですけれど、あの空間が洞窟に見えたならば嬉しい話だなと思っています。いずれにしても映像もまだどんどん変化していて、音のあり方も含めてまだまだ模索中で、実験を贅沢にもちゃんと撮影したという感じでした。

芹沢:逆に言えば、そういう実験の期間というか、機会を持てたのは良かったのではないですか。

向井:そうですね。東長寺さんも、今年は実験に使っていいですとおっしゃってくださったんです。贅沢な時間をいただけたのはありがたいですね。それは逆に、コロナの影響がなかったらできませんでした。大変になっちゃったことはありますけれど、プロジェクトを動かすという意味では良かったなと思います。

芹沢:あの空間としても、何もしないでほうっておかれるよりは、使ってもらったほうがいいですしね。

向井:とてもいい空間ですよね。

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