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きわダイアローグ04 芹沢高志×向井知子 2/6

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2. 予感に満ちる

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芹沢:東長寺で、現在羅漢堂という名前になっている場所の横に、当時、サブギャラリーと呼んでいた部屋があります。メインギャラリーからサブギャラリーに抜けるドアの上に、実は、サンスクリット文字で「プンダリーカム・スポターミ」と入っています。僕は設計段階から何か文字を入れたいと思っており、当時、東長寺を取り仕切っていた岡本和幸師というお坊さんに相談して、提案をいただいたんです。東長寺は曹洞宗(禅宗)で、禅宗では蓮の話があまり出てこないそうなのですが、彼が選んだのは「白蓮の花を開かせる」という意味の「プンダリーカム・スポターミ」だった。この言葉は「誰が」という主語が、ないというか、特定されておらず、そこがすごく面白いと思って提案してくれたんですね。可能性の象徴でもある白蓮の花を開かせるわけだけれど、一体誰が開かせるのか。「東長寺の住職が」と考えてもいいし、「P3ディレクターが」としてもいい。「アーティストが」でもいいし「見にきた人が」でもいい。しかしそのうち、僕個人としては「あの空間自体が」つまり「東長寺の講堂自体が」「白蓮の花を開かせる」というのが一番しっくりくると思うようになりました。なんらかの形で、表現する人や参加する人、見にくる人に対して、あの空間自体が作用しているんじゃないのかと。「白蓮の花を開かせる」という言葉自体は偶然に選びましたが、あの壁に入れ込んだのは正解でした。

02_プンダリーカム・スポターミ
サンスクリット文字で書かれた「プンダリーカム・スポターミ(白蓮の花を開かせる)」
東長寺羅漢堂(P3のあった旧講堂) 
撮影:向井知子

それから、もう一点指摘すると、設計上、地下2階まで下りる階段を、どう処理するかは問題でした。結局、螺旋状に地下1階まで降ろして、さらに半階降りた所に踊り場を設けて、振り分けの階段で左右から地下2階に降りられるという形を取りました。踊り場から下が見えるようになっているのですが、それにはイメージの原型があります。僕が高校生くらいの頃、東京ビエンナーレが開催されました。ビエンナーレを主催した毎日新聞社に父が勤めており、タダ券がたくさん手に入ったんですね。僕自身、別に現代美術が好きというわけではなかったけれど、見てもいいかと、上野の東京都美術館(現在の東京都美術館ではなくて建て替え前の東京都美術館)に行きました。作品が展示されていた地下の彫刻室には、階段で両サイドから下りられて、真ん中の踊り場からは彫刻室のすべてが眺められました。そこで、クリスト *1 の『床の包装』という作品を観たんです。そんなのを観るのは初めてで、かなりの開放感に加えて、どうしようもなく心が騒いだことを覚えています。そのときの経験や体験が、今も原体験として強烈に残っているのです。あのとき感じた、不思議な予感に満ちた、ワクワクするような感覚に重ね合わせたいという気持ちがすごく大きくて、東長寺の講堂も設計しました。都美術館の彫刻室は東長寺講堂より巨大ですが、同じように地下に下りていく際に、あれくらいの大げさな振り分け階段をつくりたかったんです。スケールから考えると、東長寺の大きさだと階段が異様に広くなりますが、やってよかったなと思いますね。

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P3(東長寺旧講堂)の踊り場につながる螺旋階段
撮影:Yoshihiro Hagiwara

向井:そういえば、神社仏閣にいたる山道や参道みたいな、それにあたるパサージュをしっかり使って、入っていくための準備をさせる作品や空間を近頃見かけないなと思っていたんですね。P3の階段については、わたしもすごく印象に残っているというお話を前回しましたが、あの時代、例えば、ダニ・カラヴァン *2 のように、限りなくレールが続いていき、作品本体ははるか向こうにあるけれど、その前段階として、人が何か無意識に心構えをしたり、それをもって初めて体験できるような、そこに向かう準備となるプロセスを大切にした作品が、もっとあったような気がします。わたしが、日本の庭園などがうまくできているなと思うのは、季節や時間帯などによる偶然の出会いも取り込めるような体験の変化の構造をきちんと組み立てているからだと思うんですね。空間をつくる、空間の体験を構築するということは、体がその体験の繊細な変化を認知できるような丁寧さみたいなもの、そこに向かうための何かを意識して見ることはない空間の構造のなかにつくっていくことのように思うのですが、今そういうものが結構ないなと。当時、芹沢さんには見ていただきましたが、わたしのドイツでの作品も、3Dでパサージュをつくっています。空間のなかに、わざわざ円形のパサージュと、まっすぐ行って切れる、橋のようなものをつくっている。プロセスというか、そこに向かう未満の何か、それは予感の話と関係するのだと思いますけれど、そういうものがなく、いきなりバンッと描写だ、と見せられるものが最近多い気がします。

芹沢:日本の美意識のなかには、アプローチのプロセスを大切にしているところがあると思います。着いてみたら意外と中心には何もない場合もある。でも、特に神聖なるものへ近づいていくようなときの、小さい旅自体が自分の気持ちをだんだん変えていくわけです。そっちに重きをなしているような空間の設計の仕方は、とてもあると思います。最近はいかに短時間で結論に達するか、いくら儲かるのかに着目して、みんな急ぎすぎていますよね。途中のプロセスや余韻を楽しむことが、本質だと思うのだけれど、そこを楽しむような余裕はなく、全部すっぽかして、結論と思われるものにすぐ行くのが合理的とされています。ビジネスも含めて、そういう風潮の社会にどんどん変わってきていますよね。それを反映する形で、空間や建築物も設計される。長引かせたアプローチや精神的な準備、予感を感じる、といったことよりも、単刀直入に、どれだけ成果が出たのかという割り切りに全部が向かっていってしまっているわけです。建築の人が言っていましたが、世界のどこかで新しい建物ができると、これまでは「どうしても見ておかなきゃ」と行く気になっていたのに、2000年代になってから「どうしてもあの建物が見たいから、そこまで行く」という経験がどんどん減っているそうなんです。確かに大会社の本社ビルであっても、自分の会社を象徴するようなビルを所有し、維持し続けるのはもったいない、オフィスはレンタルすればいいと考えられていますよね。大量生産されている部材を使うほうが簡単だし、CADの設計もどんどん進んでいるから、表面的にもビルディングと呼ばれているものの差異がほとんどなくなって、トリッキーな差異で勝負するばかり。でも、それだと小手先だけの空間になってしまいます。昔の建築では、一見無駄に思われるような玄関に入ってからのアプローチ、特に階段のつくりなど、さまざまな建築家が非常に苦労して処理していました。階段一つ取っても、踊り場で少し向きを変えさせることで、ある空間のなかに入っていく感覚が強烈に得られる。そういうことが、全部無駄だと思われているのかはわからないけれど、目的地に向かって、バッと高速のエレベーターで運ばれて、非常に無機質なオフィスに通されるみたいな感覚へと、考え方がずいぶん変わったなと感じています。

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*1 クリスト(Christo、1935〜2020年)
ブルガリア出身のアーティスト。妻のジャンヌ=クロードとともに、世界各地で大規模な作品を展開。「梱包芸術」で知られ、初期は日用品から始めたものの、次第に、建造物や海岸、島など巨大なものまで梱包するにいたった。シドニー近郊の「梱包された海岸」、コロラド州の「谷のカーテン」、カリフォルニア州の「ランニング・フェンス」、マイアミの「囲まれた島」、パリの「梱包されたポン・ヌフ」日本とカリフォルニアの「アンブレラ」、ベルリンの「梱包されたライヒスターク」、イタリアの「イセオ湖の浮桟橋」など。

*2 ダニ・カラヴァン(Dani Karavan、1930年〜)
イスラエル出身の彫刻家。絵画、フレスコ画を学んだのち、1960年代初頭から舞台デザイン、石のレリーフや環境彫刻を制作。周囲の環境と一体となるような壮大な環境彫刻を制作し、レールやパサージュなどを辿ることで、歴史、文化、社会的背景を想起させる作品で知られる。「Axe Majeur」「パサージュ - ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ」「ナチスに虐殺されたヨーロッパのジプシー及びロマ人のための記念碑」「人権の道」「文化の広場」「白の広場」など。日本では札幌芸術の森野外美術館、霧島アートの森で恒久設置の作品を見ることができる。ユネスコ平和賞を芸術家として初めて受賞。

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