きわダイアローグ09 渡邊淳司×向井知子 4/4
4. 能動・受動を超えた
「一つのシステムになる」感覚
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向井:わたしは、自分が映像の演出をする際、「仕掛け」や「メディウム」といった言い方をしていました。今、テクノロジーでつくられている、フレームや仕掛けというものが、いよいよ「Umwelt(環世界)」、わたしたちの環境そのものになっていると思うんです。前回、仕掛けの中に構造だけあってもダメだという話があったかと思います。それは、どういう人が関わっているかという、個々の認知の仕方や感受の仕方によって違うんだと。そもそも、「Umwelt」という言葉自体に「巡る」という意味があるので、巡っているものにだんだんテリトリーができて、それが瞬間的に接触して、境界で接触しているようなイメージを、わたしは思い描きました。
渡邊:触覚の観点から「Umwelt」の特徴を捉えると、主従を分けることが難しいということがあります。例えば、人と手を握り合ったとき、わたしがあなたの手を握っているのか、それとも、あなたに握られているのか、する/されるの境界が曖昧になります。触覚的な行為は特に分けるのが難しい。もう少し厳密に言うと、わたしとあなたの境界線が溶けるというよりは、わたしとあなたが能動・受動を超えた「一つのシステムになる」感覚に近いのだと思います。身体的な関わりという意味では、間にインターネットがあったとしても、そういう感覚は起き得るし、触覚のテクノロジーができることなのかなと。ブラインドランの話にも通ずるところがありますが、自分で“走っている”感覚と全体のシステムの一部として“走らされている”感覚の両方が一緒にある状態を、どうつくっていくのかが重要だと思います。
向井:わたしの映像を観た方から、よく「瞑想ができた」とか「腹式呼吸しちゃった」と言われることがあります。制作の際、わたしのなかではディテールは見えてこないのですが、構造上はこういうふうに空間が広がったり、中に入っていく感じがしたり……と考えながら組み立てているため、そういうものが誘導されるのは分かるんです。
2017年に、ヨガをされている方たちに協力していただき、モーションキャプチャをつけた既存の映像の前で、日本とドイツ、それぞれのヨギーに動いてもらうといったことも行いました。それぞれの収録は別々にやったのですが、面白いことに、みなさん同じような場面で同じような反応をされるんです。同じようなタイミングで寝転んだり、手を挙げたり。一人あたり2回やっていただいたのですが、タイムラインを見ていないのにもかかわらず、ほとんど同じ場所でまた同じポーズをしていたんです。体の動きとしては、もとの構造にあったノーテーションに近いものが出てきたんですね。それから、2018年には日本で、2人のヨギーに映像を使ったヨガと瞑想のワークショップをやっていただきました。ワークショップ自体は一回性のものでしたが、その後で、片方のヨギーに1か月毎日モニターで映像を観てからヨガや瞑想をしてもらいました。簡単なストレスチェックのアプリでストレス値を計測していただいたのですが、慣れてくると、始める前からその値が下がるようになったそうです。カルムの状態ですね。ワークショップ時にもいつもより一体感をつくりやすかったと話されていたのですが、この映像を観たらこうなるという自分の準備ができていて、安心感があると言っていただきました。当時は既存のアプリを使ったり、絵を描いてもらったりとできる範囲でしか詳細を調べられなかったのですが、どういうデータで取れば効果や指針を調べられるのでしょうか。
渡邊:ストレスホルモンや心拍の揺らぎのデータは関連するかもしれません、計測できると思います。心拍はリラックスしているときほど揺らぐんです。また、始める前からストレスが下がるという現象は、期待するだけでも映像を観たときと同じ状態になるということだと思うのですが、それこそが習慣化する意味だと思います。そして、習慣化による効果は、刺激がない時にも感じることができるので、持続的であるとも言えますね。
向井:習慣的に関わりながら実験していく・表現していく場をつくっていくことが必要なんでしょうね。
渡邊:そうですね。揺らぎや無意識的な違いだったり「差異」を含みつつ、「反復」されていくことが習慣化には大事なのだと思います。
一方で、現在は様々なものが差異を含まない反復としてシステム化されているように感じます。例えば、人間は生まれてから成長や変化はあったとしても、揺らぎのない一つの人格が想定されています。しかし、人間は現在進行形で意味を見出していく存在であるので、価値判断基準が過去と一貫しないことや脈略無く変化することはよくあります。また、家族の仕組みもそうです。昔は、家族で名前が一緒だったり、子育てを血縁に限らずコミュニティや社会の中で行ったり、個体を超えたところでさまざまな営みが行われていました。
個体識別や社会形成という意味では、個人を切り分けてデータとして管理しなくてはいけない部分がありつつも、一方で、人の生き方を考えると、一人ひとりに番号をつけていくことではない部分が、重要ではないかと思うんです。そういう意味で、コロナ禍は人間をデータとして管理する営みに力を入れざる負えない状況になっています。各個人のワクチン接種履歴や移動履歴を管理しないと、日常の営みが難しくなっている国もあります。
向井:でも人間は、動物に対して長いことそうやって管理していますよね。
渡邊:そうですね。そのようなやり方の延長として生命をデータ化することは、スマートディストピアにつながりますね。社会の中である種管理された生命個体としての一面と、それぞれの差異に基づいてどうやって他者と関わっていけるのか、他者と切り分けることのできない生を生きる存在としての一面という、両方の目を持っていないと、大変なんじゃないかなと思います。
こうやって向井さんとお話しして最初はいろんな方向に動きながら、最後の30分くらいでそれまで全然違うと思っていたこともが集約されていく感じは、自分の行ってきたことを振り返ったとき、一本筋が見えてくる感じと似ているなあと思うんです。毎回さまざまなトピックを「これは関係ないかもしれないですが……」と出しながら、最終的にはつながれていく。振り返ると、それぞれの感じているディテールが明らかになって話として見えてくることが面白いですよね。ゴールが見えないながらも何かに導かれて歩いているような対話とでもいうのでしょうか。
向井:このダイアローグの編集担当曰く、わたしと渡邊さんの対話は編集しやすいんだそうです。それは、それぞれが重なりを意識しながら話しているからだと思います。きわダイアローグでは、感覚的な実感を言語化して相手と対話するようにしています。喋っているときのわたし自身はその方の喋っていることを捉えていたつもりでも、客観的に編集されたテキストを読むと「そことそこがつながっていたの」と気付けて面白いんです。それから、あるダイアローグで出た話を、違う相手ともダイアローグ上で話すので、いろんな方の反応で少しずつディテールが生まれてくる。それもきわダイアローグの良さだと思っています。こうやって積み重ねていくうちに、対話以外にも協働できる機会があればうれしいですね。
渡邊:それこそ、まさに対話の「習慣化」から生まれるものですね。