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きわダイアローグ09 渡邊淳司×向井知子 3/4

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3. 本来は削りたくないところを
  どうやって残していくか

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向井:きわプロジェクトのメンバーであるヒルシュは、デジタリティという概念の分析を進めていくなかで、無数の穴をつくっていってしまうと話していたんです。例えばMPEG-4みたいなものでは、もともと人間の耳では聴こえないある周波数を切ってしまっています。そのように、さまざまなもので、人間の知覚未満の部分では関与していた部分が切り取られていることで、わたしたちの感受も鈍っていってしまうのかもしれません。「Umwelt(環世界)」同士が相互作用を起こすのであれば、相手の「Umwelt」から、ある情報、それは意識上には感受されないものが失われていった場合、受け取る側の感受の情報、あるいは感受性そのものが失われていってしまうかもしれないと。エンパワメントの可能性に満ちているということも承知したうえで、何が必要で、何が欠落する危うさを持っているのか、渡邊さんのご意見をお聞かせいただけますでしょうか。

渡邊:人相手では話せないことを、ロボット相手だと話せる、自己開示できるという話があります。「自分についての何かを喋る」もしくは「自分について何かを決める」とき、相手が人格を持っていなかったとしても、誰か・何かと一緒に行うことで納得感を得たり、責任を共有した感覚が生まれるのかもしれません。ロボットやAIといったテクノロジーが、一緒に共同行為する他者として受け入れられつつある感覚はありますね。

向井:ご著書のなかで、囲碁についても「対戦相手のAI自体が何かを理解することより、わからない存在に対して考えながら打っていった、人間の側の決断が面白いと書かれていましたよね。

渡邊:そうですね。わからないものと共同行為をすることで、新たな自分を発見するかもしれないですし、新しいことを一緒にできたり、決めたり、背中を押してもらったり……。新たな発見や行為のきっかけとして、テクノロジーがあるのかなという気がしています。
逆に、相手が人じゃないからこそできることもありますよね。例えば、鏡のような存在としてロボットやAIを使う事を考える。ロボットは、こっちが恥ずかしがる必要のない存在、つまり無人格なものだけれど、存在として「いる」ことができて、人相手だと喋れないことも喋れるなんてこともあるのだと思います。
昔、僕は同僚の研究者と、iPadの画面を指で順番になぞっていくと、お経が読める読経ソフトウェアをつくったことがあります。実際に僧侶の方がお経を読んでいるなか、人々がiPadをなぞると、指の動きに合わせてお経の文字が現れ、さらに録音されたその僧侶の声も再生されるという仕組みです。画面をなぞることでユーザーに「自分でやっている」感が残り、かつ、コンピュータを相手にしつつも自分が「ありがたい何か」に接している感覚がある、不思議な体験でした。

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Yu bi Yomu
音声を用いたコミュニケーションの特徴を取り入れたソフトウェア。
ごく薄く表示された文字の上をなぞると、文字が徐々に濃く表示される。
音声も同時に再生することができる
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なぞる般若心経
経典の文字のなぞりに合わせて、僧侶の読経が音声再生されることによって、実際の僧侶が読経を行っている場への一体感や共有感が増す。寺院の読経の様子の映像・音声はオンライン通信にて送信され、遠隔(大阪大学)でも同時刻に読経が行われた平等院(浄土院)・大阪大学、2013年

向井:今そのお話を伺って、二つのエピソードを思い出しました。一つはきわプロジェクトのメンバーの話なのですが、彼女は子どもの頃、お父さまに「自分で気になった文章は手でなぞりなさい」と言われていたそうなんです。それで、彼女は気になるところに赤線を引いたりしていたそうなのですが、学校の先生に「なぞるのはやめなさい」と怒られてしまった。それで、「これはいけないことなんだ」と思って、そのエピソードを言わないでいたようなんです。ところが、あるとき「わたし、今なぞっているんです」と言ったことがあったんです。先に述べた200枚の写真の授業を彼女も受けていたのですが、その際、見た目はバラバラで何が起きているかわからないものを持ってきていました。そんななかで文字をなぞる話が出てきたとき、彼女がこだわっていたのは、色や形ではなくて「なぞる素材感」だったんだとわかったんです。なぞるという、触知の部分が関わってきたときに、コミュニケーションや、人の思考に触れている感覚のようなものがあるんだなと思ったんですね。もう一つも学生の制作の話なのですが、彼はおじいちゃんの記憶のパフォーマンスをしたんです。おじいちゃんの記憶に関しておばあちゃんと対話しているところを録音し、それをヘッドホンで聴きながら、自分の口で再現する。別の声でなぞられているにもかかわらず、そこに憑依的な存在の立ち現れがあって、見ている人は切ない想いを感じたんです。
手でなぞる、声をなぞる行為には、思考に触れるとか、誰かの何かに触れるものがあるんじゃないかなという気はします。

渡邊:存在の立ち現れっていう言葉は、すごくしっくりきますね。読経ソフトで文字をなぞっていくときも、ポチッとボタンを押すのではなく、なぞることで時間をかけて関わるわけです。それ自体に時間性があるというか、背後にある何かに対してエネルギーをかけてアクセスしているというか。先ほど「ありがたい何か」という言葉を使いましたが、そのありがたさって、今思うと、お経を読み上げる声の瞬間的な良さだけではなくて、その背後にある世界や、もしくは時間みたいなものを想起させることに対してだったんだろうなと思いました。

向井:きっとそれは、生でお経を読まれている僧侶の方がいるなかに、その方の録音された音声があったからですよね。

渡邊:確かに、生で読経をする僧侶と、なぞりで参加している人が同時にいた場だからこそですね。目の前に声の主がいるというのは、やっぱり自分が出しているものの意味が全然変わるのだと思います。それに、誰の声かわからないと「いい声だよね」で終わってしまいますが、「この人の声」という文脈があることや、行為として時間をかけてなぞるところがよかったのかもしれません。あと、参加者それぞれなぞり方が違いますし、同じものが並んでいるわけではないという差異が生じていたこともあったのかなと思います。

向井:実際の声ともう一つ録音の声があるという立体感が、そう思わせているのかなと思いました。コロナ禍で、リモートで一緒に演奏したり、歌ったりするのが増えましたよね。参加された方は、見えている安心感ややっていることを理解できて楽しかったでしょうけれど、わたしはそれを観てもピンとこなかったんですね。一方で、すごいなと思ったのは、イタリアでみんなが同じ時刻に声を出していたこと。みんなが一緒に声を出している一体感や、生の声と機械から流れる声の立体感から、何かが立ち現れる感じがします。
少し話が逸れますが、先ほどの手嶋さんに「方便」についても教えていただいたんです。お釈迦さまの教えや本質みたいなものは、みんながみんな理解できるわけではありません。仏教において目指すところは人間が救われることなんですが、救われるための本質的な部分がわからない段階にある人に、わかるように伝えていくことを「方便」と言うそうなんです。特に日本の場合は、現実的に人が救われるかどうかみたいなところが大きかったそうで、そのときに教祖たちが救われるように説いていたものが、方便らしいんですよね。そして、方便として伝わったものが仏教の本質かどうかは問題ではなく、方便を受けた側がどういうふうにウェルビーイングと捉えられるかが大事なんだそうです。

渡邊:つまり、方便はある種編集されて出てきたものなんですね。それって一回性のものじゃない気がするんです。その方便を何度か聞いていくうちに、捨象されている部分や本質みたいなものを、ちょっとずつ「こういう雰囲気なのかな」とわかっていくのかもしれません。それが重要な気がします。本来は削りたくないところをどうやって残していくか、デザインすることが必要なのでしょう。

向井:渡邊さんもおっしゃっていたように「伝えることそのものが重要なのではなく、受け取った人にとっての認知上の意味がある。それが表現である」ということと重なってくるのかもしれません。

渡邊:一回性の中に、時間などの無意識的なものがちょっとずつでも入っていれば、回数を重ねると本質も身体化されていくといった要素があるような気がしますね。

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