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きわダイアローグ09 渡邊淳司×向井知子 2/4

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2. 「とりあえず残していたアウトプット」が
  出ているからこそ、振り返る意味がある

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向井:わたしが大学に勤務していた頃、学生に「自分が気になったものの写真を200枚提出させる」という課題を与えていました。好きなものではなく、違和感や嫌悪感も含めて興味を持っていたり、解決していなかったりするものを提示させるんですね。200枚選ぶことは結構難しく、無意識のうちに、自分が意図しないものや解決できないものも出てきます。そうして集まった写真を授業で披露して、本人の意図は聞かずに、他の人たちが見て思ったことを付箋で貼っていきます。すると、本人の意識上にあるものは、意外と誰でも共通項に気がつくんです。逆に、本人もよく分かっていなくて、他の人から見てもさっぱりわからないようなものほど、あとで効いてくる。だから、わたしは、そういうものほど捨てさせなかったんです。特にデザイン分野では、取捨選択が重要だと言われます。でも、共通項ではない部分に、普遍性というか、社会的に実装化できるユニークさみたいなものがあって、それを忍耐力を持って見つけていくことがすごく大切だと思っていたんですね。

今、教育などでも、感受性などをエンパワメントしていくのに欠けているのは、捨て去ったほうのものに忍耐強く向き合っていくことではないかと感じています。プロセスを人と共有できるような場にどうしたら持っていけるかは、ものすごく難しいことですよね。これは、渡邊さんがおっしゃった時間とも関わっていると思います。足湯や喫煙所でも、習慣化して、ある長さを重ねないと見えてこないものがあるように、些細で一見何だかわからないものをどこかに置いておいて、何かあるときには自分の中でもアクセスしたり観察したりする。それを続けていったときに、初めてその人の中で、別々にあったはずのものが、急にスーッと通るような感覚を得られるのだと思います。

そういった時間の重ね方や待ち方、忍耐力の持ち方は、展覧会やワークショップなどの1回性のイベントや、編集行為から出てきたものだとこぼれてしまいます。そこのジレンマをすごく感じています。これからどういう形や場だったら、うまく育っていくのか。また、きっかけに終わらず、育たせていくにはどういうことができるのか。社会生活をしながらそういうものを育てていくことはとても難しいですよね。先ほどの例で出した200枚の写真のセレクトを実際に行なった学生たちも、そのときの経験は大切に持っているのでしょうが、実際に社会に出てからを見ていると、そういう力を自力で育てることはものすごく難しいのだなと思います。

渡邊:僕のやってきたことは、はたから見るとバラバラなことが多いんです。触覚、ウェルビーイング、ワークショップ……と、時々、自分でも何をやっているのかよくわからないこともあります。ただ、何かに取り組んでいる瞬間というのは、無意識的に素材をつくっている感覚があります。向井さんの200枚の例でいうところの、よくわからないものも含めてとりあえずアウトプットを残しておくという部分に当たるかと思います。そして、後ろを向いてそれらを眺めるときには、一見バラバラな点と点がつながった結果、どういうものに見えるかを考えるわけです。本の中ではそれを「星座」と書きました。例えば、これまでに出版してきた本を眺めてみると、全く分野が違うにもかかわらず、毎回自分なりにストーリーが出てきます。もちろん「とりあえず残していたアウトプット」があるからこそ、振り返ることができるので、そして、個人的には、とりあえず残していたものの細かいディテールこそが、全体の「モード」を決めているのだと思います。文の「。」を書く位置が文章全体の雰囲気を変えるみたいなことと一緒で、自分が何にこだわっているという「モード」が揃っている。だから、振り返ったときに浮かび上がるのは、細かいディテールではなくて、その「モード」だと思うんです。

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さまざまなテーマを点として、全体が星座のように浮かび上がってくる
NTT研究所発触感コンテンツ+ウェルビーイング専門誌『ふるえ』
2015年~(上記図版はウェブサイトトップページのスクリーンショット)

向井:渡邊さんのように、持続的に、社会の中で「とりあえず残しておく」、そして「振り返る」というふうにしてきている人ってほとんどいないのではないでしょうか。でもわたしは、それがものすごく大切だと感じていますし、どうしたらできるのだろうと思っています。

渡邊:それは、僕の立ち位置というか、所属にも関連している気がします。例えば、普通の会社に勤めている場合、会社の命令を受けて仕事をして、アウトプットに対しても個人として名前を出す必要はありません。その代わり責任は会社が取ってくれます。逆に、アカデミアやアーティストは、自分の名前で仕事を請け負うため、出てくるものの責任は基本的には個人が持ちます。企業の基礎研究所の研究員である僕は、その両方をやらなければならない部分があります。個人として自身の価値付けをしつつも、会社からの大きな流れがあるわけです。つまり、個人でありつつも、社内の一つの素材でもあることを行ったり来たりするのです。

向井:今世界では、どうやって他者や世界を感受するかについては、ものすごく個人に求められていると思います。そのくらい世界が切羽詰まっている感じがしています。去年の秋、10代の頃に比叡山で修行をされ、現在は龍谷大学教授の手嶋英貴さんという方に、比叡山を案内していただいたんです。その方とも話をしていたのですが、昔はごく一部の優秀な人が「社会をこうしていこう」と、世界の捉え方について考えればよかったわけです。それ以外の人たちは、そんなことまでは考えが及ばず、まず生き延びることを考えなければなりませんでした。手嶋さんも、実際に比叡山にいたときは、そういう生活をしていたそうなんです。例えば、雨が降ったら道をきれいにしないと、とか、今日はお客さんが来るから布団を用意しないと、とかそういったことです。それで、「ウェルビーイングとは何なのか」という話になりました。

手嶋さん自身は仏教の元々の教えにどのような現代的な価値があるかということに焦点を当てるのではなく、大学でも仏教そのものを教えるというより、教養課程として、比叡山という文化の集合体を通じ、学生さんたちが人生の中で自分で表現していくための手助けをしているとのことでした。要はウェルビーイングですよね。

昔は発達障害、あるいは身体的障害に対して、差別もあったかもしれないけれど、一つのくくりの中でちょっと違う人として扱われていた部分があると思います。今の世の中においては、診断名がつくがゆえに、頭での理解は進んだかもしれないですけれど、「祝福」ということがなかなか難しかったりとか、その人自身がそのままそこにいるということが、必ずしも生きやすさではなくなったりしてしまったわけです。その人たちの表現の発露みたいなものに、社会としてのウェルビーイングの可能性があったり、社会が全然違うほうに祝福されたりしてもいいんじゃないのかなと思うんです。例えば、作家の東田直樹さんの時間の捉え方はすごく面白いんですね。東田さんご自身が記憶をすることが難しく、瞬間瞬間に対してフラッシュバックがあって、ワーッとなるそうなのですが、キーボードをなぞることで自分の思考をコントロールして、文章を書かれている。そうやって書かれたテキストがなかったら、わたしたちは、そういう感受性を持っている方たちの世界の認知の仕方を知ることができなかったわけです。もしかしたら、自然の中で共在・共存していくための知恵みたいなものは、そういう方たちのほうが知っているかもしれないとも思うんです。〜〜症候群とされているものは、定型や非定型と分けられますが、本来はつながりの中にある。そう考えると、定型の人たちの世界の捉え方が唯一ではなくて、むしろ非定型の人たちのほうがよく捉えていることがあるかもしれません。それに対する祝福があったり、表現が生まれたりして、社会で共有できる形にすることが、エンパワメントと関わってくるんだろうなと思っています。

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