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ティシオ・エスコバル:アートの普遍性を問う「アルテ・インディヘナ」

私が在籍するエクアドルの大学院のクラスメートに、アメリカからの留学生が一人いる。彼女は学部時代、アメリカ合衆国の大学で美術史を勉強し、アメリカ大陸の先住民のアートに興味を持っている。学部時代のある授業で、彼女が先住民のアートの話をすると、「それは工芸だ」とクラスメートたちに批判された。彼女はそれでもアートの文脈で考えようと議論しようとしたが、それに対して2人の女子クラスメートが「工芸をアートとして語るのはアートへ冒涜だ」と主張した。

今でもインディヘナ(先住民)は自分たち作る陶芸や織物、絵画に至ってまでを「アルテサニア」=工芸と呼ぶ。エクアドルのアマゾンの奥地に住むサパラ民族の方に「ここではどんなアートを作るんですか?」と尋ねたところ、「アルテ(アート)」という表現が伝わらなかったので、「例えば、絵を描いたり、物を作ったり」と説明すると、「あー、アルテサニアね!」という答えが返ってきた。

そもそも先住民にとって、「アルテ」や「アルテサニア」というスペイン語自体、外国の概念だ。しかしヨーロッパの文化がこの地で覇権を持った時からアートとアルテサニアを分別する概念が当たり前になり、先住民の生み出すものは問答無用でアルテサニアと断定された。

なぜ「アート」と「工芸」(または民芸品)を分けることへのこだわりが存在するのか。なぜ先住民の作品はアートとして認識されないのか。先住民のアートはその概念に一石を投じているのかもしれない。

長年パラグアイの先住民文化や人権を擁護してきたパラグアイ出身の学者でキュレーターのティシオ・エスコバル(Ticio Escobar)の論考が一つの参考になる。今回は彼の文献「Culturas Nativas, Culturas Universales: Arte Indigena-- El desafio de lo universal」(土着文化、世界共通文化:アートの普遍性を問うアルテ・インディヘナ)を紹介していきたいと思う。

(筆者メモ:実際のエッセイの7割ほどしか書けていません。エスコバルのエッセイ全文が邦訳されるのが理想的ですが、今私にはそのような余裕がないので今回は最も重要であると感じた点に集中して書きました。セオリー寄りの文章を端折りながらなのでわかりにくいところもあると思いますが、私も新たらしい気づきがあれば、修正を加えたりなどしてなるべく伝わりやすい記事になるように努めます。)

アルテ・インディヘナと西洋文化の古典(キャノン)

このエッセイは、グローバル化されたアートシーンでのアルテ・インディヘナ(先住民アート)の可能性と継続性の考察である。先住民の芸術は、それと対抗する世界的コンディションの中、生き延びて尚且つ繁栄することは可能だろうか?この問いは文化だけではなく、具体的に「芸術」に関わることである。そしてこの議論はアートの「普遍性」が問われている時代で、西洋の芸術システムとは違う伝統の文脈で行われているのである。

まず、「アート」の概念を再考しよう。
アートとは、私たちが体験する世界を深めるために「モノ」や「コト」の持つ通常の意味に介入し、新しい意味や仕組みを生み出す「物」や「実践」の集合である。

先住民のアートも「美学」に基づく実践ではあるが、それを現代の一般的な「アート」というカテゴリーに当てはめようとする瞬間、異議が唱えられる。簡単にいうと、先住民文化のアートは、美学と他のシステム(例えば知識、信条)を切り離さないのである。それは分野間でも同じことが言える。例えば西洋思想のように「アート」「政治」「宗教」「科学」「法律」と言った分け方はしない。

また、近代のアートの概念に最も対抗するとも言えるアルテ・インディヘナの要素は「美学」(aesthetic)と「有用性」(utility)を分別しないことだ。そうやって、アートの美学的自律性を無視するだけではなく、様々なアートのジャンルを区別することもない(例:ビジュアル・アート、文学、ダンス、演劇等)。

そんなアルテ・インディヘナは近代思想や西洋のアートの概念と衝突する。特に、美学と有用性を分離させた上で美学を優遇し、アートの自律性を主張するドイツの哲学者イマヌエル・カントの理論に基づく西洋のアートの概念を否定する。

カント理論に基づく近代西洋美術は以下の条件を満たすことを要する:

・美学的自律だけではなく、作家の単独的な才能
・常時改善、発展し続けること
・海進的な画期性を持つこと
・作品の唯一無二性(エディションとして作られる作品はあるが、基本的にアート作品は「商品」と違って、たった一つ存在することに価値が与えられる。何個も同じ物を流通させないことが前提にある。)

別にこれ自体が悪いと言うわけではないが、問題はこの概念や条件が「普遍的」な古典(キャノン)として普及し、「アートの基準」として機能し、この条件に従わない表現物をアートではないと判定することである。古典はある一部(この場合は西洋美術)の価値観だけで世界を知覚し、表現することしか許さない覇権(ヘゲモニー)となって権力を振りかざす。

アルテ・インディヘナ、及び「近代」の流暢に従わない表現物はこの条件を満たさないのだ。アルテ・インディヘナの場合、個人の単独の制作物ではない。海進的な画期性を求めていない。唯一無二の作品ではない。また、多くの場合は具体的な利用目的を持ったものであるため、カント理論の「美学の自律=有用性のなさ」とは対極のところにあるとも言える。従って、西洋美術論では、これら作品や表現物はアートではなく「工芸」「民芸品」「無形・有形文化遺産」と呼ばれる定めにある。

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ハマ・コアケ文化の土偶
Jama Coaqueはエクアドルのコスタ(沿岸地方)の現在のマナビ地方に当たる地域におそよ355年から1532年まで存在していた文化。この文化の美術品はハマ・コアケ美術館に所蔵されていたが、エクアドルのコスタで起こった2016年の大震災で美術館が被害を受け、割れてしまった物も多く、現在修復作業が進んでいる。

「アルテ・インディヘナ」と言うジャンルの肯定

エスコバルは「アルテ・インディヘナ」を肯定することの重要性を論じる。主に、西洋美術とは違う美術の存在を尊重することで、「優れた文化」と「そうでない文化」という上下関係をつけようとする植民地的モデルへの挑戦になるからである。

先住民文化では美学と有用性が絡み合ってモノやコトが形成されている。これらモノやコトは「アート」の領域を超えて社会的意義や意味を補強する。つまり「美しさ」に絶対的な価値があるのではなく、美しさは他の真実を弁証するためにあるのだ。

しかし、かと言って美学の自律性がないことは、美やフォルムへのこだわりがないということではない。エスコバルはこう語る:

カモフラージュされ、社会文化的組織に漬かり、[...]様々な勢いと勘違いされながら、美学的要素は間違いなく存在する。美学は、重く、移りゆく集団の記憶を中から黙って押し出している。

美学は密かに真実やその機能性を示している。[…]限界を越えたところにあるものについて語ることによって文化の視野を[可能性で]いっぱいにする。

アルテ・インディヘナに見受けられる「美学」は必ずしも「美しさ」と結びつくわけでもない。インディヘナにとって「美学」とは、時に眠った可能性を呼び覚ますためのものである。例えば神話や宗教関連の像はあえて魅力的ではない姿や形をしていることもある。そうやって世界の複雑さ、不確実さ、答えのない側面を表している。

また、アルテ・インディヘナには美学的なことを超えた実践があることを考慮すべきである。その代表的な実践の一つと言えば「儀式」である。

儀式は参加する人やモノと浮世の間に距離を生む。何か触れられない、時間の外にいるような距離だ。儀式の中でモノや人は、それに関わる自分の役割や機能に従い、果たすのである。

儀式に使うモノや参加する人に「価値」「意味」を与えるのは何か?まずは「美」であろう。美学的要素が重要である。次に、儀式がモノに与える価値と意味は「コンセプチュアル」とも言える。例えば、儀式に使われる果物や道具は日常生活でも使用するモノでもあるが、そこではいちいち重要な意味を持たない。儀式の時にそれがただの道具や生活品ではなく、何か特別なものに変身するのは、日常生活という空間から離れて、コンセプチュアルな意味で「見るに値する物」と化すからだ。

コンセプチュアルとは、マルセル・ドゥシャンが掲げたように、そのモノの形や仕組みとは別に、作品としての「オーラ」を与えること。ギャラリーや美術館の外では自転車の車輪や小便器は輝きを持たず、鑑賞するに値しない。そこでは車輪や便器はその単調な機能性によってのみ存在意義がある。コンセプチュアルな視点によって「美」が導き出されているとも言える。

インディヘナ文化の外ではこれらのモノは美学的でも神秘的でも意義深いものでもないだろう。しかし儀式などの文脈では確かな美学が存在し、コンセプトを以って日常的な機能性以上の価値が生まれるのである。

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儀式の時に設けられるインスタレーション
写真はあるイベントで即興(と呼んでいいのか…)で用意されたものを筆者が撮影した様子だが、インティ・ライミの祭りなどではこのようなインスタレーションが儀式に利用される。用意されるものは花びら、果物、穀物(とうもろこし等)、ロウソクがメインである。

アルテ・インディヘナとラテンアメリカのポピュラーアート(大衆芸術)

アルテ・インディヘナ含め、先住民文化はしばし大衆文化と(誤って)置き換えられるほど密な関係にあるが、同じものではない。そこで、先住民文化と大衆文化の関係性やラテンアメリカにおいての大衆文化の位置付けを簡単に説明する必要がある。

【ここは長さ調整のため、少し凝った理論的な部分を端折っています。】

大衆文化とは、社会的に不利な立場や過小評価された人々の間で共有されている実践、論議、人物の一式である。大衆文化は上から(覇権的秩序に)制定された表現ではなく、それに対するオルタナティブな表現を独自で生産、展開している。そして、大衆芸術は大衆文化の中の具体的な領域である。

歴史的に見ると、大衆は過小評価されているが故、社会の中で決定権が与えられず、排除され、社会の象徴的資本への貢献が無視されている。しかしそれでも大衆芸術は覇権的文化との差別化を肯定する生産的なムーブメントとして存在する。大衆芸術とは歴史の構築であり、世界を解釈するための動きであり、大衆の主観性を構成し、違いを肯定する。

大衆芸術の自己肯定性は集団的アイデンティティーに必要不可欠である。それが大衆社会の一体性を生み、文化的抵抗や政治的な申し立てのを可能にするのだ。

産業革命により脅かされる工芸の生産システムは大衆文化の運命にも関わる事態である。それだけではなく「文化」全てに関わるとも言える。美学の自律である「アート」と、有用性を持つ「工芸」との溝が深まるだけではなく、同じ有用性のある品物でも「伝統工芸」と機械によって生まれる「量産型」に分類される。そしてポスト産業化やグローバル市場が促す文化の商業化と大量化がこのようなカテゴリーの分離をさらに悪化させるのである。工芸や大衆芸術はこうして「アート」と「マス・カルチャー」との間で板挟みになって変化することが予想される。

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ティグア絵画(Pintura de Tigua)
エクアドルのコトパクシ地方に住むインディヘナのコミュニティーの絵画。元々山岳地帯のインディヘナは楽器やお面に絵を描いていたが、1970年代からキャンバスという平面にも描くようになった。留意すべきは、これらの絵画は一人の画家が制作しているのではなく、何人もの作家が何枚もの絵を描いている。よって、これらは作家名ではなく、「ティグア絵画」として知られている。飽和色のような極端な配色でコトパクシに暮らすインディヘナの日常生活や文化が描かれているのが特徴である。

ラテンアメリカの大衆先住民文化の議論はしばしナショナリズムやポピュリズムに染められることがある。ナショナリズムが機能するためには「国民」が同一種でコンパクトな「民衆*」であることを要する。そうやって実際はいくつも存在する国民同士の差異や特徴を消すことで、特に先住民が実際に置かれている状況、苦難や排除などもまるでないことにする。先住民の現在の実生活を無視することで、彼らをまるで絶滅しそうな神秘的な世界の住人と美化し、先住民の芸術文化もその世界の遺物として、国が誇る「我が国の古き良き文化」という美談として語ることができるからだ。

(*ここでは日本語で「民衆」としているが、エスコバルは「プエブロ」(pueblo)というスペイン語で表現している。プエブロの直訳は「村」であるが、イメージとしては権力層ではない国民、一般庶民を表している。)

このような美化した先住民のイメージ作りはナショナリズムにとって非常に都合が良い。また、先住民のアイデンティティーを固定することで大衆芸術と「文化的なアート」(arte culto/cultured art)の差別化を図ろうとする。「アート」は常に革新的でなければならないのに対して、アルテ・インディヘナ含む大衆芸術は昔から続きこれからも一生変わらない姿で同じ「真実」を表現することで「アイデンティティーの真正さ」を保つことを強いられている。ナショナリズムという文脈で、「インディヘナ」という存在は国のルーツや原点の象徴的保管所であり、500年前と変わらぬ姿で国のアイデンティティーを発信するのが「義務」だ。一方、「アート」やそれに携わる者はまっすぐ未来へ、「発展」の道を辿ることが許されている。

この考え方はとても典型的な二分法(dichotomy)を示している:特有性と普遍性。ローカルなアート、いわゆる「土着文化」はもう完結されていて尚且つ「普遍的なもの」とは対立関係にあるとされる。そして、外部から来る「普遍的」な芸術や文化に影響されることは先祖代々受け継がれたが純正さや記憶の遺産が薄められてしまうという懸念を生む。迫ってくる帝国主義を前にして保守的になってしまうのはどの社会でも起こりうることだ。

このようにナショナリズムの視点から先住民を囲ったり、混合を恐れて遠ざけようとするのは不要な二分性やアイデンティティーの極端な簡素化を招いてしまうため、例え帝国主義を前にしても逆に有害な戦略である。もっと有効な方法は帝国のゲームのルールを理解してそれを逆手に取って利用することである。

アルテ・インディヘナと近現代とこれから

先住民は時代と共に変わって良いのか悪いのか、という質問がそもそも見当違いである。なぜなら「本物の」先住民の姿はそもそもなんだ?植民地支配が始まる15世紀以前の姿形か?なぜ彼らだけそのような「真正さ」や純正さが求められるのか。変わらない姿でいることはナショナリズムにとって都合は良いが、変わらない文化など存在しない上、何を受容し、何を拒否するかを決める権利は先住民たちにあるはずだ。

それは芸術文化に関しても同じである。「真正さ」はコミュニティーが主体的に形成するものである。大衆芸術に携わるアーティスト、とりわけ先住民アーティストが現代的な要素を取り入れる時、それは同化したり、アイデンティティーが失われているわけではない。自分たちにとって有効利用することで生き延びたり拡大するための戦略である。それはどんな社会的集団でもすることではないだろうか。

先住民アーティストはサバルタン*の立場から近代性(モダニティー)を取り入れることで独自のロジックやハイブリッド性を生み出している。意図的な文化の混合が行われる時、その輝く不純さの中に彼の「真正さ」があるのだ。

(*サバルタンは、ポストコロニアル理論などの分野において用いられる、ヘゲモニーを握る権力構造から社会的、政治的、地理的に疎外された人々をさす術語。 日本語では「従属的社会集団」などと訳されることがある。)

しかし同時に、北米の「多文化性」の視点から見た、グローバリズムにとって都合の良い典型的なポストモダンなラテンアメリカのハイブリッド性の罠に陥ってはならない(それは例えばコカ・コーラを飲む先住民の描写など)。それはアイデンティティーを「真正さ」に結びづけた本質化(エッセンシャリズム)から、アイデンティティーをフェティッシュ化しただけのことであるからだ。

かと言って、全ての境界を排除し、なんの文化の差異もない社会も好ましくはない。それも結局は先住民のアイデンティティーの否定でしかない。

現代のアルテ・インディヘナは閉ざされたものでも、固定されたものでも、産業や他文化が入ってこないような浸透性のないものでもない。しかしながら、アルテ・インディヘナの独自性、西洋美術などとの違いは維持されるべきだ。そして、そのバランスは先住民に任せて然るべきではないか。

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