今の私が考える「生きる」ということ
今日のテーマはこれだ。「生きる」ということ。正直すごく難しいし、この先また考えが変わることもあるかもしれない。でも、ここ数日の心境や苦しみ、困惑、気付きを言語化したいと思っている。だから、最初はタイトルを『「生きる」ということ』だけにしようとしていたのを少し変えた。「今の私が考える」という枕詞は非常に重要だ。
このnoteを書き始めて今日で7日目。最初は、自分以外の誰かに自分の想いをぶつけたくて、自分の中だけでは自分を抑えきれなくなって、でもその抑えきれなくなっている自分のことがよくわからなくて、生きることが難しく、とにかくどうしたらいいか困り果てているような状態だった。
カウンセリングでも「ものすごく困ってるんだね」と言われていた。そういえば、私はよく「怒ってる?」と聞かれることがあるのだけれど、自覚としてはそういうときはいつも別に怒っていなかったりする。「嘘だ、怒ってるじゃん」と言われてしまうことがほとんどだが、私はただ、困り果てていた。いつもいつも困っていて、本当に困っていて、それが周りには怒りとして捉えられていたようだった。そして今、私は私に困っていた。カウンセリングでも話すのが苦手で、なかなか自分の感情を拾えずにいた。自分という人間がよくわからなくて、でも内側ではいつもなにかが渦巻いていて、ふとしたときにそのなにかが爆発し誰彼構わず攻撃してしまいそうな恐怖感があった。
先週の水曜日、いつものようにカウンセリングに行った。用意した話すことのリストを見ながら、少しづつ時間をかけてしゃべった。うまく言葉がつづかなくて何度も長考した。
このとき、私は「愛想笑いの人生をやめたい」といった趣旨の話をした。小学生の頃は興味が持ったものはなんでもやってみて、目立つのが好きな生き物だった。でも中学に上がり、部活でうまくいかなかったり、自分の容姿にショックを受けたり、また小学生の頃から感じていた「なんかうまくいかない」「なんか嫌われる」「友達がうまく作れない」といったことが心に影を作ったり、そんないろいろが積み重なってすっかり自信をなくした。そして、みんなの視線が集まる場所にいこうとするのをやめた。一番後ろの端っこで愛想笑いをし、周りが何かに盛り上がっていてもそれを後ろからそっと眺めるような、笑いかけられたときは笑うような生き方を身に着けた。でも、大人になってもそういう自分は消えなくて、いつからか周りにばれないように愛想笑いだけをしているような自分が嫌になった。周りに気を使いすぎず、思ったことを言って、ちゃんと喧嘩できるような、そんな生き方をしたくなった。
自分の中に、渦巻いているもの、愛想笑いの下に隠された本音みたいなものがあるのはわかっていた。わかっていながらそれを汲み上げることができず、どんなに決心してみても渦巻いているものを表に出せない自分にもやもやしていた。自分の中に何かあるとわかっているのになにもできないもどかしさは、苦しさと困惑を肥大化させた。
「愛想笑いの人生をやめたい」そんな話を必死にしている最中に涙が出てきた。何をばかげたことを言ってるんだろうって思われてないかな、どうせばかにしてんだろうな、愛想笑いをやめられないなんてのは自分の覚悟が足りないからでしょ、努力してないからだめなんだ…先生が私の苦しみを否定したらどうしよう、甘いって言われたらどうしよう。そういう恐怖と、自分から自分への「もっとちゃんとしろよ」という冷めたトーンの言葉が頭の中に浮かび続ける。話すのが怖い、でも話せないのも苦しい。いろんな感情が絡まりあって、また私を困惑させた。
言葉が続かなくなったとき、先生が「その渦巻いているものというのは狂気なんじゃないか」と言った。私は前から、これは割と小さいころから、何かを傷つけるということに興味がある人間だった。相手が嫌いとか、にくいからとか、そういうのじゃなくて、例えば「今目の前を歩いているおじさんを後ろから刺して、そのまま逃げたらどうなるんだろう」みたいな。友達をあえて失敗する方向にそれとなく導いて、ほかの友達に避難を浴びせられるような雰囲気を作ったこともある。そんな風に誰かを陥れるのも好きなところがあった。そしてそういうところが非常に怖くもあった。そんな考えを持つのは自分の何かがゆがんでいるからだと思い、過去をたどり、いろいろ考えて自分を正そうとした。自分は大丈夫だと思おうとした。幸いってわけではないけれど、我が家は少し特殊だったしそのせいで「私は愛されていない」と感じていた。人間不信だと自覚していた時期もある。だからそのせいで私はおかしくなったんだ、よく本にも書いてあるように「過去の自分」とやらを満たせばきっとよくなって普通に楽しく人生を送れるようになるんだと思った。でも先生は、私の持つ狂気はそうやってなおすようなものではなく、私を構成する大事なもののひとつなのではないかと言った。あとになって、私はそれを「後天的な」経験に基づく狂気ではなく、「先天的な」狂気という意味なのかなと理解した。また先生は、その狂気はうまく生かせばかなりのエネルギーになる、仕事で結果を出すことにもつながったりするというようなことを言った。確かに、私が私の渦巻いているもの=狂気をなおそうとしたりなくそうとしたりしているとき、私はすべてのやる気が失われていくような感覚になる。逆に「狂気的な」攻撃性というか、強さ?無敵感?があるときはものすごく元気だったりする。先生のいうことは間違っていないなと思った。私の中に渦巻いているのは愛想笑いの下に隠れて見えにくくなっている本音ではなかった。間違っている・抱くべきではないから消さなきゃと必死になっていた狂気だった。それはものすごくピュアな狂気だ。先生には、最初の頃に自分の中にやばい衝動があるという話をしていた。どうしたらいいかわからなくなって爆発しそうになる、でも抑えきれなくなりそうな時があって、爆発してしまったら何をするかわからないんだと。先生はそんな私の狂気を、私を構成する大事なものだと言った。
びっくりした。そして同時に気が付いた。なんかいつも違う気がして、愛想笑いな気がして、どんなに自分の本音をくみ取ろうとしてもうまくいかなくて、どうしたらいいか苦しんでいたというのに、「なんか違う」のは私が私の狂気を見ないようにしていたからだったんだ、と。私が探していた本音というのは狂気の中に組み込まれており、それなしで本音を探すことなんかできないのだ。私が私の中の狂気を認めること。持っていること。消せないこと。消したら自分が自分ではなくなってしまうこと。それを知ったら苦しみがすっと消えたような気がしてすっきりしたのを覚えている。
「私の中には消せない狂気がある」と知って、私はそれを実生活の中で意識して出そうとした。攻撃的になればいいのか?と思って、ちょっと冷たく接してみたりしていた。狂気に従って周りを見下し、「あーあばかだなあ」「どうやって痛めつけてやろうかな」とか考えてみた。それはそれでもやもや感がなかったし、楽しかったんだけれど、もっと楽しく人としゃべりたい自分もいて、そういう時どうしたらいいかわからなくなって、意識的に狂気を作り出すのはすぐにやめた。それがこの間の『隠しきれなくなった見苦しさ』のときだ。書いてるときはすかっとしてたんだけど、さすがに自分でもちょっと引いた。完全に混乱状態に陥っていた。
さて、そんなこんなを経て、混乱状態もあの記事を書いたおかげで落ち着いて、今度はいろいろやってみたくなった。「狂気」を知って、私は少し攻撃的なくらいに自分の思い、「これが嫌」とか「これが面倒くさい」とか「あいつなんなの」とか、そういうマイナス感情をしっかり出すようにした方がいいんだなと思ってそうするようにしてみていた。狂気すべてを抑え込もうとした結果、ストレスにつながるマイナス感情もすべて持ってはいけないものと認識していたから、表に出すようにしてみるだけで随分生きやすくなった気がしていた。楽しいときは楽しいと笑ってもいいし、嫌なときはいやとはっきり言う。それくらいなんのひねりもなくストレートに感情表現をしてしまう方が私には合っているようだった。そうしたら今度はいろいろやりたくなってきた。感情に素直に、あれをしたら楽しいかも、やってみたいな、とかが生まれるようになったのだ。でもそこでまた問題に直面した。今の状態から変わることがものすごく怖くなったのだ。
以前から、「変わるのが怖い」と感じることが多かった。精神的問題が解決に向かい、よし、より人生を楽しむ方向に舵をきってみようじゃないかと考えるといつもきまって起こる現象。不思議なのは、やろうとしていること等に付随する恐怖ではないということだった。やってみたとしてもうまくできないかもしれない…とかそういうのではなく、まあ多少はあるけど、でもそうじゃなくて私は「自分が消えてしまう」ことが怖かった。これまでの自分が丸ごと消えてしまう。わからなくなってしまう。そんな風に感じていた。
そんな恐怖の抱き方は少しおかしい気がする…、そう思っていろいろ検索していたら、「これだ」という記事に出会った。それは「自己愛」についてのものだった。以下、いくつか引用しながら私の解釈を記していきたい。
記事によると、自己愛とは「自分を護り大切にしようとする意識のこと」らしい。けれど様々な事情により、「他からの影響によって自分がいなくなればなるほど、自らを愛そうとしたり、愛されようと頑張」ることで自己愛を強めてしまうとのこと。そしてそうなると、「自分という存在を他によって認識していながら、自らが認識をコントロールしていると思い込」んでしまう。
ものすごく難しい。何度読んでも理解しきれていない気がする。でも。自分が消えてしまうことについてこんなにしっかり説明されている記事は初めてだった。そして私はこれだと確信した。私は自己愛が強すぎる状態なのだ。自分という認識が必要以上に大きくなって、自己愛も強くなった結果、自分を大切にしようとしすぎるあまり「自分自身を空想・妄想の中に押し込んで現実から目をそらす」。だから、変化によって現実が動いてしまうと作り上げた空想・妄想にも無理が生じ、ずれが出て、自分をうまく認識できなくなる。それが恐怖の正体、ということだと思う。まあ確かに、自分だと思っていたものが消えるかもしれないという状況は怖いよな。周り=現実が変わってしまうと私は私を認識できなくなってしまうから、変化を拒む。変わってしまう現実を遠ざけ、現実逃避をする。
私は今、現実を拒んでいる。自分に対する認識が強すぎて消えてしまわないように必死だ。でもこの方の記事ではさらにおもしろいことが書かれていて、そもそも自分はいない、というような考え方があるらしい。すごく腑に落ちたんだけど、それはまた別の機会に。
ここまで長々と自分を語り、いざ今日のタイトルの答えを述べるなら、それはこの「恐怖との戦い」だ。自分が消えることへの恐怖。これをなんとかして、変化を恐れすぎず、感情をあっけらかんと表に出し、より楽しく、幸せに生きる。それが今の私の「人生の課題」だ。
いつか私が消えた時、私は今日みたいな記事は書けなくなるんだろう。だからこれは遺書みたいなものだ。私を覚えておいてほしい、という遺書だ。私が今認識している私が消える前に、ちゃんと残しておきたかった。
自分が世界の中心、なのではなく、世界の中に私がいる。自分という自己認識が優先されるのではなく、世界の中に身をゆだねるだけ。たった数十年、世界の時間の中でたった数十年に参加させてもらう。感情も考えすぎることなく、内面的外的関係なく起こった変化を受け入れ、そこでゆられ流される。そんなスタンスで生きたい。
明日からはどんな日常が待っているだろうか。私は私を消せるのか。できれば楽しく、たまに狂気をのぞかせ、共存して愉快に人生を全うし、穏やかに死ねればいいなと思う。こんな自分と手を取り合いながら。
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