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ゼツボウならば

今の私に「絶望」という言葉はない。
なんとかなる事を知ってるから。

「絶望」の意味を調べてみる。
"希望を失うこと" 
「希望」は "未来に望みをかけること。こうなればよいと願うこと" と書いてある。
こうなればいいな、なんてしょっちゅう思ってる。でもその度に「絶望」なんてした記憶はない。「絶望」という言葉自体が、もっと重い感じがする。
それなりに色んな体験はしてきたのだと思うけど、私のイメージする「絶望」ならば、何回かはあったかもしれない。 でもそれは今思えばそうだったのかもしれない、であって「絶望したことはありますか」と聞かれたら(そんな事聞かれたこともないけど) 「ない」 と答える。その時「絶望した(してる)」なんて思ったことないから。

本当に心底ダメージ受けるような出来事があった時、人の思考は止まると思ってる。
「考え」というものが浮かばない。真っ白になる。頭の中が空っぽになった感じ。
感情がなくなり、味覚もなくなる。何を見ても聞いても「心」が反応しなくなる。 だだ息をしてるだけの物体となる。
そんな時、「自分は絶望してる」なんて思わない。それすら浮かんでこない。
だからもし今そう思ってる人がいるならば大丈夫。それはまだ「底」じゃないからか、少し浮上してきたかだから。

「心」が反応しなくなり、感情がストップしたのならば  ストップしてると感じられる位まで僅かな隙間ができたのならば、の話になってしまうのだけど。
そう感じたならば、無理にあれこれやらなくてもいいと思う。 状況的に必要最低限やらなくちゃいけないことだけ、やれることだけやって、あとは好きに過ごせばいい。 「掃除しなくちゃ」とか出てきても、その時やりたいならやればいいし、埃たまっても人は死なないから。 あれこれ「こうしたほうがいい」とか言ってくれる人いるかもしれないけど、その通りにする必要なんてない。 
自分がそうしたいなら、そうすればいい。

散歩でもなんでも、歩いたり、人のあまりいない公園とかでぼーっとするのもいいかもしれない。
まわりの「言葉」をあまり入れない。 
それはあなたの「言葉」ではないから。
「言葉」は「思い」がなければわいてこない。あなたの「思い」が戻ってくれば、「あなたの言葉」になるから、大丈夫。
無理に人の言葉を受け入れる必要はない。
気を遣わなければいけないのは、「あなた」に対して。「自分」をみてあげられるのは、あなただけだから。
他の誰にも「本当のあなた」はわからない。

感じなくてもいい。
何やってるんだろうと思ってもいい。
ちょっとだけ外に出て、太陽の光を浴びて、家の中でない空気を吸って。
どこに行くという目的持たなくていいから、ちょっとだけ周りを歩いてみる。
ゆっくりでいい。 裏道でもいい。
上を見て。
空がある。 雲がある。 鳥が飛んでる。
公園でどこか座ってみて。
樹がある。 土がある。 花も咲いてる。
風も吹いてる。
葉っぱが揺れる音は聞こえる? 
風が身体に触る優しい感じは?
太陽のぬくもりはあたたかい?
川がある所なら、水は流れてる? 
キラキラ光ってる? 
ただ、見ているだけでいい。

「時間」というものが緩めてくれるものもある。 自分の中が止まってしまったのならば、今は「止まった」中にいればいい。
ある時ふっと、何かがキッカケで感情が戻って来るから大丈夫。焦る必要はない。

「思い」が戻ってきて、自分が絶望してると感じるのならば。
何かの望みが閉じたのならば、同時に別の扉が開いたということ。
その「渦中」ではそうは思えないかもしれないけど、その望みだけが全てではないから。
もしそれしかないとしか思えないのならば、何かを握りしめているのかもしれない。「自分にとって」そうでなくてはならないナニカを。 
本当にそうでなくてはならないもの?
どうにもならないものなんて、ない。
必ず別の扉が開いてる。
その時見えなくても。

「色」が戻ってきたら、またそこで遊べばいい。 後になって「あれが絶望というものだったのか」と笑えばいい。
止まった感覚は無駄でも駄目なものでもなく、「経験」というひとつの財産が増えただけのこと。
でもその経験をしてない人にはその感覚は分からないから、いつかその経験が、誰かの聴こえないSOSを気配として感じることが出来るかもしれない。
それはあなたにしか出来ない事なのかもしれない。
「止まった」ということは、「止まってない」のが分かるということ。
さらに「自分」を知る機会があったということ。
そう思えるのならば、
「自分にとってヨクナイ」さえ放してしまえば、イイコトしか残らない。

ね?

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