見出し画像

パラパラぱられる piece_vol.75

どれだけ思い込みの世界で生きているんだろう。
どれだけ色眼鏡で見てるんだろう。
どれだけ自分が見たいようにしか見てないんだろう。

その縛りが少し緩んでほころびが感じられた時、自分の愚かさアホさ加減を痛感する。

と同時に

いつの間にか身に付けているこのもう要らない重しを外せば外すほど、見たいようにではなく、本来の輝きやあたたかさが充ちみちてる世界を観れるのだということを実感する。

表面的な、「自分」がそう思っているからこうにしか見えないんだ、という"理解"ではなく。
それすら「自分」が理解しているという思考なのだから。

そうではなく。

そういったものを通りすぎて、目の前に現れる現実風景。
その"揺らぎ"がナニカを感じさせてくれる。

パラレルワールドという言葉は誤解されやすいからあまり好んで使わないけれど、敢えて使うのであれば、どこかにある別世界へ飛んでいくというそんなお伽噺とぎばなしではなく、自分の思い、捉え方、感じかた、それらで如何様いかようにでも目の前の現実が変わるのだから、もう瞬間瞬間がパラレルワールドが繰り広げられているようなもので。
実際感じてなくても、人は誰でも日常でものすごいパラレルワールドを生きてるんだなーと思う。たぶん「へ?そんなこと?」というような事なのだろうけど。

だから「ここまでなったら別次元へー」とかやらんでも、日々充分すぎるくらいあっちゃこっちゃの別次元へ行ってますから。好む好まないは別として。

例えば何だかとっても重苦しい空気が漂っていたとして。
そこに突然赤ちゃんの「きゃっきゃ」という笑い声が響いたら、ふっと気が緩んで空気感も変わるし、瞬間優しい気持ちが現れる。
これは赤ちゃんならではのマジックだけれども、その、瞬間緩んだときは、もう別次元と言ってもいいのではないのかしら。

そんなものが毎瞬毎瞬起きているのが日常で、それは全部「自分」の捉え方次第で変わってくる。
目の前に起きている出来事は同じでも、捉え方で次第で見え方も感じ方も世界も変わってくる。

こう言葉にすると「じゃあ、捉え方を変えればいいのね」と”理解”がやってくるのが、ややこしい。



「理解」も要らない
「自分」も要らない

足して足して生きてきて
ぐるぐる巻きになっているものを

削いで 外して 取っ払って
どんどん身軽になって
澄んで 深めて
空っぽになる

空っぽは
何もなくならない

空っぽになったぶん
いっぱいになる


削いでも削いでも
何もなくならない

削いだぶんだけ
豊かになる

もともとある豊かさに
気付けるようになる



ない
というのは

ある
よりも

あるのだと思う



思い込みの世界が
ゆるむとき

そこには
無限が
ひろがっている



どこまでいっても
ストーリーだけれども
それでもやっぱり
その 流れ であり
ありがとう


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。