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そこに何が乗せられているか

言葉というものは
共通のツールだけれど
その使い方捉え方は人それぞれで
その異なりによって
見えている世界 聞こえている世界が
全く違うものにもなっている

言葉そのものを強く掴んで
その意味合いでやりとりをするのが
これまでの当たり前だったけれど

これからは
その言葉にまとわれている
エネルギーのようなものが
感じ取れる人が多くなってくるから
発している言葉の意味合いよりも
そこにどんなものを乗せているか が
その時その人なりの現われに
なってくるのかな

こう言った ああ言った というような
言った言わないというすれ違いもあるだろうけど
それよりも
その時その言葉を発した時の
その人の 思い のようなものが
相手に強く感じ取られるから
今までの 言葉の意味付け という類も
ちょっと位置づけが
変わって来るのかもしれない



どれだけキツイ言葉だったとしても
その言葉に乗せられているものが
相手を思う優しさで溢れていれば
言葉そのもので傷つくよりも
その優しさにあたたかくなるだろうし
もちろん 逆も然りだけれど

違う角度から言えば
この感覚が深まっているかどうかで
付き合い方が変わって来る

言葉面しか捉えられない人は
感覚で発せられてる言葉の本意は
届きにくいだろうし

感覚で言葉を発する人には
言葉面を掴むのが強い人は
会話がしづらくなってくる

そうやって
自然と集まる形態が
分かれてくるんだろうな



言葉をないがしろにするとか
言葉に重きを置かないとか
そんなことではなくて

感覚が開かれるからこそ
言葉という言霊に
完全合致した思いが乗せられたとき
その言霊パワーは全開になって
ものすごくパワフルなものになる



色んな面から
転換や変革が同時に行われていて
キツイっちゃーキツイけど
それでもかなり緩やかに
自然な流れで日常に溶け込むように
ありがたい恩赦にあふれてる

いつまでも
「いままでの自分」を
自分が握りしめているのが
一番重くなるから

毎瞬 自分は生まれかわっていて
いつも 初めまして くらいの勢いで
自分を取り扱ってあげると
少しは慣れてくるんじゃないのかしらん

この世界に
固定されているものは何ひとつなくて

あらゆる全ては 動いている

留まっているものはない

身体も 思いも

自分が 知っている としているそれは
既にもう 違うものになっているのだから

だから

自分というものも
固定なんてさせないで
どんどん変わっちゃってよくて
いや 実際変わっているのだから
変わっているのが当たり前 と
自分をゆるめてあげればいい



耳から聞こえる言葉が全てじゃない

その言葉に
どんなものが乗せられているのか

ひっくり返せば

じぶんは この発する言葉に
どんなものを乗せて羽ばたかせたいか



それは
オトと見えないナニカで
いつもひろがっている


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。