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感覚ありきへの転換 piece_vol.79

「歩きたい」と身体が訴えてくる。
私にとって「歩く」とは、身体を整えるようなもので。どこか目的地がなくてもテクテク歩いてるだけで、ゆっくりと身体がバランス戻してくる感じです。


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歩くなんて本当に当たり前の事なのですけど。
歩く前に大きな深呼吸を何回かして、足裏から大地の気を吸い込み頭から抜く(はく)。頭上から吸い込み身体を通して足裏から大地へ流す(はく)というのを毎回ではないけれど思い出した時にはやって、そして「歩きます」と意図してから歩き出します。文字通り「歩く」をやるんです。

いつから始めたのかもう忘れちゃいましたが、でも出勤でもお買い物でも今はもう無意識に「歩きます」とやってるようなので、習慣化したみたいです。

覚えてるときは足裏で呼吸するような気持ちで、歩きながら気が身体を上下に通り抜けてるような感覚で。これやるだけで身体が軽くなる感じがします。
始めはヨタヨタその時のバランス取れるところを探してるような出足ですが、数分もすると安定してきてタン・タンとリズムよく「歩く」が始まります。そのうち身体が暖まってきて巡りもよくなってきます。

途中でお陽さまを感じたら、路の端っこ寄って太陽の方へ向かい、全身でお陽さま浴びながらしばらくその温もりを感じます。コートの上からでもその暖かさは広がり、身体が喜びます。
日当たりよいところに座ってお休みされている人生の大先輩方を街中で見かけると、心の中で「師匠~っ!」って感じです(笑)。あれ、お家の中に閉じこもってるより絶対気持ちいいですもん。


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「歩く」ために歩く。
どこか行くためでもなく何か求めるためでもなく。移動手段としての歩くことではなく、「歩く」という行為そのものを楽しむ。
歩けるというのがあまりにも当たり前になっていて、身体の動作の一部すぎて普段「歩いている」と言うことすら考えに上ることはないけれど、歩けるってスゴイ事だよなーと感じます。
歩きながらも目には周りの様々な事が飛び込んできますが、移動手段で歩いている時とはまた違った景色が目に映ります。
自転車や車では拾えない世界が見えます。太陽や風をダイレクトに感じられます。
そしてお家に戻る頃には身体はポカポカで巡りもよくなり、リフレッシュもできてご機嫌さんです。



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曇り空のなかいつもの神社へ。
風の冷たさとドンヨリお空で人影まばらでしたが、まったり歩きたい私にはこの上なくありがたいことで。
そして何でだか分かりませんが、今日は

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鳩さんらがお伴をして下さり。
いや、最近鳩がよく寄ってくるなぁーとは思ってたのですが、今日は何故だか皆さん付いて来られるんですよ。。私が止まれば鳩も止まり、奥まった所に入れば鳩も入ってくる。この写真は振り向いて撮ったやつなのですが、この倍の鳩さんらが私と一緒にしばらく移動してまして。時々エサ振り撒きながら鳩つれて歩いてるオジサンいますが、あんな感じでございました。あまりにちょくちょく来るので身内と認識して頂いたならそれはそれで嬉しいですが。ちなみに鳩(以外でも)にエサはあげない派です(笑)。


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カチカチの冬の籠りは過ぎたようで

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自然界では春の準備が始まっているようです

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小さかった新芽たちが葉を広げはじめ

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秋とはまた違ったグラデーションを紡ぎはじめています

それは全体として眺めても「ああ春が始まりはじめてるんだなー」と感じられ、植物たちは籠った中で育んできたものを解き放つべく "ゆるみ" がもう始まっているようです

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この一見寒々しくみえる樹の
この細々とした枝の先の先に

春が宿っているのです


タノシミは

目に見えないところでも
確実に



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ここ数日の感覚の変化はなんじゃろかと思ってみたりしてたのですが。
振り幅が極端になってきているのはそのようで、嬉しかったりドヨーンとしたりした時に、以前よりも一気にその方向へ突っ走り傾く、ような。そして感覚がクリアになってきている分、よくもわるくもハマり抜けにくい。
この「よくもわるくも」がミソで、嬉しいと感じたことも、あまりにヒートし過ぎるとある瞬間違和感を感じるようで。「ん?」みたいな。

どうやら、単純に「嬉しい!」と感じた後にそのままウキャウキャしてる中で「こうだったからこうなったんだー」とか「こうなったからもしかしてこうなるかもー」とかいう思考や自我サンの絡みが無意識に引っ付いて来てたようで、それが出始めると何だか分からない違和感らしきものが感じられたようです。


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始めの「嬉しい!」はココロからの湧きあがりで、ハート辺りを中心にぶわっと暖かさが広がる感じ。
余計な引っ付きが出始めると、嬉しくはあるのだけど、その暖かさは感じられない。
身体ってのは面白いなあと思います。

嬉しい も 嬉しくない も、どれくらい片寄ったかにもよりますがエネルギーはあるわけで、エネルギー的にはヨシアシないからどちらでも同じなんですね。喜びすぎても疲れちゃうし。

ほんじゃあ思いっきり喜ぶな、って事ではなくて、先ほどの自我サン登場あり得るって事をどこかで覚えておけばよいのかなと。
その思いっきり喜んでるエネルギー最中さなかで自我サン巻き込まれると、そのパワーのままグルグルですから(笑)。

嬉しいこと良いことなんだから別にいいじゃないとなるかもしれませんが、「だったらこうなるだろう」はもう思考の世界でマボロシですから。その時点で「いま」にいなくなっちゃってます。
「いま」にいないからハートのあったかさも感じられなくなり、そのまま頭のストーリーの世界へレッツゴー!です。

その時それに気が付いたのならば
「あ。また思考の世界へ飛んじゃった。あはは」でオシマイです。


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真ん中から外れている時の心地悪さが、より感じられるようになってきたのかなーと感じます。ヨシアシ問わず。

もともとヨシアシは「思考/自我」担当分野ですから、真ん中ではないです。

ジブンの真ん中。本来のジブン。自分軸。中庸。ゼロの状態。呼び方は何でもいいのですが、本来のジブンの安心や心地よさからズレてる在り方のとき、それが良いと思えることでもそうでないことでも、どちらもズレてることには同じです。

その違和感がより感じやすくなってきている事で、それに気が付けばお知らせとなり、ジブンの真ん中へ戻りやすくなるなあと。

この数日の"真ん中へ戻ったとき"の安心感がハンパない(笑)。同時にズレてる違和感もですが。
でもこうやってより強く感じることで無意識にズレてしまった事に気が付きやすくなります。
ってことは、真ん中へ戻りやすくなります。

真ん中は「どちらでもOK」の感覚なので、それが広がることで、やがて自分に対しても「どちらでもOK」が広がります。

ああ、こうやって少しずつ慣れて変わっていくのねーと、なるほどと。



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雲の中の太陽はこれまた面白く


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空が
海のようです



空も 海も
雲も 太陽も
自分も それ以外も

それらすべての
肩書
レッテル
意味付け をはずし

それそのものを
みたとき


空なのか
海なのか

その判断(ジャッジ)なしで
みたとき


そこに

あらわれているもの



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春の息吹が
かすかに感じられるように

その

うつろい 変化は

確実に

はじまっているようです


ありがたいことです


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。