見出し画像

失敗は、誰彼の成長に必ずしもならない ~バカは馬鹿で、無能は無能のまま~

上司と部下、チームメイト、バイト仲間、パートナー間、夫婦。誰かと一緒に共同作業をすることは、人生にいくらでもある。そうした場合、各自の個性能力の形が重なり合い、片方が優れてはみ出している場所、片方が至らず足りない場所が必ずでてくる。人はないものは上手く認識できず、あるものを認識するのが得意なので、自分は”できる””ある”けど相手はそのラインに達していないという相手の至らなさ(無能さ)に目が行きやすい。(相手から別の領域で同じように思われているとは気づきもせずに……。)

自分の目から見たら失敗で無能で至らない、その相手について。私はこれまで、本人に任せてあえて何も口を出さず、失敗させる(落胆させる)ことで、変化のきっかけが生まれる。失敗が成長の鍵だと思っていた。そうではないと今更ながら気づいたので、失敗について整理しておこうと思う。






失敗が失敗と認識されないから

結論から書けば、失敗を、失敗や至らなさと認識されないから、失敗させても無意味で無駄である。今更ながら気づいた。失敗した→ 改善しよう!にならないのであり、失敗は誰彼を必ず成長させないのだ。

例えば、プリント提出期限最終日なのに、家に忘れてしまったとする。ある程度の人は、これを失敗と捉えて、その改善策を講じる。プリント類の定位置を決め整理整頓することで忘れないようにしたり。締め切り前に動けるようにスケジュール管理を改めたり。その人なりの方法がなんでもある。

一方、失敗と捉えない人は、今回はたまたま偶然起きたミスでしかない。プリントの提出期限なんて、余裕みて設定しているから1,2日遅れても平気だ。一緒に作業していた誰彼さんが締め切りを強調してくれなかったせいだ等々の理屈で、失敗の原因を責任転嫁や軽視し、何も変化改善させずに同じミスが起きる。





相手の失敗は本当に失敗なのか

相手は失敗だと認識していない。自分は失敗(至らない、足りない)だと認識している。さて、こういう状況の場合、相手の認識が正しいのか。自分の認識が正しいのか。わからなくなる。その線引きが必要になる。

1、共通共同利益の損失
2、多数決方式(第三者の介入)

3、上司と部下や親と子による権力行使(コーチと選手)

一番わかりやすいのは、1の利益の損失だろう。行動や作業を共にしているのだから、相手の失敗により、全体の損失が生じているはずである。わかりやすい損失以外にも、機会損失や遺失利益等、認識しにくいものもあるが、その損失 = 相手の失敗誤りであり、だから改善するべきは筋が通った誰もが納得しやすい話の流れだろう。

2は、第三者や客観性による失敗の指摘である。1対1の認識ベースの話し合い(例えば、言った言わない)は決着がつかない。しかし、そこに第三者が加わり、片方の方がより良いとか正しいとかのお墨付きがあれば、その天秤は片側に傾くことができるので、誰彼の失敗至らなさの指摘が可能になる。

3は、上下関係やら影響力がすでに存在する状況で、相手を教え導くケースであり、かなり例外的だ。本人の意思や認識関係なく、上の人が、こういう時は、こうしなければいけないという言葉を授ける。失敗したかどうかはよくわかっていなくとも、下の者はその言葉を信用し、次は、その言葉の通りにやってみよう!という場合だ。

さて、こうして失敗を指摘できる3つの線引きを提示したわけだが、認識の話なので正解はないし、正解には至れない。例えば、利益の損失云々という1の流れであっても、損したっていいじゃないかとか、そのぐらいいいじゃないか、遅くてもいいじゃないか。けち臭い口うるさいと相手が言い始めてしまえば、そこで失敗改善は終了である。第三者の客観的な意見による指摘、より公平な視点による指摘であっても、事情を知らない誰彼になにがわかる!いやあなたには関係ないし!と相手が言い始めてしまえば、そこで終了だ。失敗の認識や改善は何も起きない。

つまり、失敗(至らない足りない)とは、実は、私は○○を食べるのが好きや部屋の汚さと同列の価値観の束の現象の1つでしかない。安いから家から近いから美味しいから~と力説しても、でもなんとなくこの店のこれが好きといわれればそれまでだし。清潔な方が健康に良い、すぐに欲しいものが見つかる、ものがなくならないと力説しても、別にすこしぐらいじゃ困らないし失くしたら買えばいいといいだすのだ。

つまり、本質的には、失敗はわかりあえるものではないし、各自で異なるものであり、その人の個性であり、どうしようもできない部分で、失敗を相互理解共感できない人というのは、別の世界の住人なのだ。





別の世界の住人との付き合い方

相手が失敗と認識できなくてへらへらしていても、自分は認識できるその失敗の余波や損失は、方々から迫りくる。なので、相手が認識できようができまいが、失敗を減らしたいと思う側が存在する。別の世界の住人と、どう付き合えばいいのだろうか。


1、失敗を許容する
2、失敗を指摘する
3、失敗を管理する


これまでの話を肯定的に?受け止めて、自分の感じ方を変えようというアプローチが1である。価値観の違いでどちらが正しいというわけでない。それならば、それは失敗ではなくて個性であり、失敗というのは価値観の押し付けなのだから、諦めて許そうということだ。ただし、このアプローチには疑問が残る。どちらも価値観であり同列で正しさがないとするならば、同列であるのだから相手の価値観の基準だけが優先される理由もない。片方だけが我慢や許容を強いられる必要は本来ないはずである。

2のアプローチは、失敗を指摘しあうことだ。本音をぶつけ合うと言い換えてもいい。失敗と○○が好きが同列であり、いわば価値観であり個性であるならば、失敗を指摘する事は、やましいことでも卑しい事でもないことになる。自分の足りなさや相手の足りなさを、ストレートに正直に指摘し合うことで、自分がどういう人間か、相手がどういう人間かを相互理解しやすくなる。また、口に出すことで改善はしないかもしれないが、我慢するだけよりはストレスは減るだろう。

3のアプローチは、相手の失敗をどうしても我慢や許容できない場合にとる方法だ。失敗と認識する側、望むハードルが高い側、成果やパフォーマンスが高い側、能力がある側。ざっくり言えば、ある分野で相手より優れている側が、方向性や内容を決定し、ルール作りや命令やスケジュール管理を行うということだ。上司と部下の関係である。このアプローチによって失敗と認識するストレスは減るかもしれないが、決定や管理の手間暇が増えるストレスが新たに生じる。できないを補足し続ける、補い足し続ける関係というのは、それはそれで疲れるだろうし。相手は失敗と認識していないので、口うるさいと相手は不満さえ募らせて、あなたに冷たくなるかもしれない。





別の世界の住人との向き合い方

結婚すれば、子供ができれば、社会人になれば、この人は変わるかもしれないという期待は、というわけで無意味で無駄である。失敗を失敗と認識できないのだから、人間はそう変わることはない。バカの壁とか、バカとは付き合うな!とかいう本を書いた人がいた気がする。あるいは、バカにつける薬がないも同様の見解だろう。

誰彼にとってはそれが正解正常でも、誰彼にとっては馬鹿無能に見え続けているわけで、変わることがないからだ。ただし、別の世界の住人だ(相互理解、価値観を共有できない)からといって、簡単に切り捨てたり切り離すのは誤りだと思う。上記の付き合い方の工夫で折り合いをつけてもいいし、向き合い方・見方を変えてみるのも手だろう。


・総合評価と個別評価
・強烈なストレスによる変化
・器の見極め


誰彼には足りない部分もあれば、自分より足りている部分もある。それなのに1つの部分だけで誰彼を評価する(総合評価する)事の方が、誰彼を十分に理解しているとはいいがたい。なので、彼の○○の部分は足りてないと個別評価で各項目分野で評価する方が、正確に誰彼を理解できると思う。

失敗を相手にそれは失敗だと認識させることもできなくはない。強烈なストレスや圧をかければ、変化を促せる。街中で暴漢に襲われる経験をすれば、護身術を習ったり、護身用の道具を持ち歩くようになる。あるいは実家に帰ります!で帰ってみて、家事の大変さを思い知るかもしれない。あるいは、自分のある行動で大迷惑大損害が起きて、顔面蒼白みたいなことになれば、その足りなさを直視して、直そう変えようと少しは思うだろう。

失敗を失敗(バカを馬鹿、無能を無能)と見限るよりも、器を見るように心がける方が望ましいと思う。失敗の概念を言い換えるならば、器だ。人間は誰しも器を持っている。それが経験や知識で、少しずつ満たされていく。しかし、まだ足りない、まだできていない、これじゃないという向上心や欠乏感不足感が強い領域は、その器は満たされずに、もっともっとと欲しがる。一方、これでもういいやもう十分でしょという領域は、そこで成長が止まる。つまり、失敗を見た時に本当に大事なのは、相手の器が満たされている(相手が悔しがったりしていないで、それで成長が止まっている)のかを見ることだ。下手の横好きのように、成長意欲はあるが成長速度が遅くて使い物にならないケースも中にはあるが、器と成長速度を意識した方が健全でより正確な認識に繋がると思う。





おわりに

失敗して、(本人が苦悩するほどの)痛い目を見れば、わかる。は正しいのですが、失敗すれば徐々に考えを改めて、誰彼は着実に成功していくというのは誤りです。全てはその人の器次第です。毎回同じ失敗(失敗と思っていない)を繰り返す人も沢山でてくるわけです。

良い器をもっているのに、知識や経験が注がれることがなくて、量が少なくて無能や出来が悪いと誤解されている人に出会えたら、それは掘り出し物かもしれません。

失敗と思った時に見るべきは器で、失敗と付き合っていくときには、価値観の違いと割り切って、上の3つの方法のどれかで折り合いをつければいいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?