技術が産み出す差別について ~対話型AIによる文章選別あるいは機械優位社会~

生活を豊かにするため、生活の不足を補うために、人間は道具や技術を産み出して、問題を解決し、生活や科学という水準を向上させてきた。さて、その道具技術による人間の格差差別が、最終段階の機械による選別にまで至るなと思った話。

AIがあったって、人間のやることは一緒だ。完成図を描いてそれに近づくことは変わりないとしてきた。しかし、勝ち戦だとしても負け戦だとしても、やることには変わりないみたいな正論で、めげずに頑張ろうみたいな+の活路にばかり注目していたように思う。負け戦になると逃げだしたり扇動されたりする負の側面で右往左往する人も必ずいる。もう少し負の側面についても整理してみたい。






道具技術によるこれまでの差別(格差)

1、生活支持力の差別
2、生活生命水準の差別
3、利便性効率性の差別
4、より豊か高尚高度という差別
5、4までを利用した経済的支配による差別

6、技術が人を選別するという差別


1、水が欲しいから井戸を掘るとか。寒さ対策に毛皮の服を作るとか。罠をつくって獲物をとる等々。そこで生きていく最低限の技術道具レベル。これらが劣っていると、そこで生きられない。人口が増やせない。

2、綺麗ではない水をくみにいきそれを使っているとか、衛生環境の悪い中で調理せざるを得ない。医療が発展していない等々。そこで暮らすことはできても、安心安全に暮らすからはまだまだ遠いレベル。

3、車があるから早く着ける、荷物もたくさん運べる。蛇口を捻れば水が出る等々。それらがない人よりも、あるおかげで日々の生活を便利に効率よく過ごす道具技術。

4、美味しい料理を食べられる生産調理技術、難しい病気も治せる医療技術等々。それらがあるからない人よりも豊かに、より人生を有意義?で高尚?な暮らせる技術道具。

5、1~4までを利用して、それら技術が劣る他の国等から、富を集めて経済的優位性で、相手よりも強い立場にたち、大なり小なり虐げる差別。

6、詳細後述


道具技術による格差差別は、こうして段階やグラデーションがある。5までの段階は、それはあくまで”道具技術”の範囲の話だったと思う。つまり、自分が望む完成系にどれだけ早く近づけるか、損か得か。便利か効率かという道具本来の意義や意味の領域である。どちらがより○○かで簡単に選び判断することができる損得や理性、データの話だ。

少し掘り下げて説明すると、人が価値を感じるのは以下の通りで、道具技術はこれまで左の理性や実利、数値化の領域の価値を中心に急激に拡大してきたと言える。しかし、データや数値化できるものだけが判断基準ではない。どちらが好ましいか。”私”にとっては、と感性や感覚の領域には個々人の様々な考え方捉え方がある。

主観理性 ⇔ 客観感性





道具や技術の結果として、1~5の格差差別が生まれていたとしても、感性感覚主観的な領域の判断によって、それらは棄却され、差はあっても別にそれが侮蔑や嘲りやらの対象にはならなかった。自然と共に暮らす原住民が都会の暮らしに憧れたりしなければ、そこにはその道具技術にその人なりの価値を見出せなかったという話なだけだ。また、ある程度今の生活に満足すれば、その利便性満足より、その道具技術に価値を感じなくなる=誰もが最先端とか一番早い機械を欲しいわけではない。





機械優位へ

AIという技術が作り出す価値は、これまで以上に、そして急激に人の感性の領域に侵食していく。この点が、AIという技術の恐怖であり脅威だと思う。

よくSF漫画で、AIが、《あなたの今日の健康度合より、朝食はこれを食べましょう。》とかいうシーンがある。ここで、健康健康うるさいよ。今日はジャンクでいくよ!という返答が現代だ。人間が機械より上である。

さらに、AIが進化して、感性の領域でAIが拡大すると、今日はジャンクですか?さっぱりですか?とか、気分をあげる食事ですか?健康ですか等、心は理解できなくても、行動傾向から適した聞き方と満足する答えを学習し、効率よく選択と判断をしてくれる時代が次の時代だろう。人間の思考をかなりサポートしてくれる。

さらに、感性感覚の領域でAIが学習して選択判断の精度が上がると、ジャンクか健康か聞く必要もなくこれまでの集積データを生かして、最適な答えを提供するようになる。すると、いつしか人間より機械が優位になる。

機械の判断に任せておけば、自分よりも正確でより良く満足する答えが出るならば、もう機械にかなわないと、機械を鵜呑みにする。自分より機械の方が正しいと信じてしまう。さて、1つの存在や思考様式にだけ頼り、こちらが良いという指示に無自覚に従うことは、もはや宗教や操られているとも言える気がする。

また厄介なことに、人間は怠惰と効率化が得意なので、思考選択判断が不要であらば、ますます思考を放棄し思考できない人間になってしまいかねない。本来は大きな問題、例えば、家を買うべきか。結婚相手は誰にするべきなどですらも、任せてしまうかもしれない。最終的には、そのプロセスの理解は忘れられ(聞けば教えてくれるのだろうが、誰もそんなことを聞かないぐらい信用して理解しようとしなくなる)、答えだけを鵜呑みにするのだろう。





技術が作り出す差別

感性体系すらも取り込んだ、理性でも感性でも便利で思考放棄させる最適な答えを提供するという技術は、ある差別を作り出す。

その技術を使うか使えるか。使わないかだ。使えば使うほど人間(思考)を止めていくことになるが、劇的な効果を持つからその魅力に抗えなくなる。FF8のGF(召喚獣)みたいなものだ。どんどん使うほど頭や記憶がすり減っていく。SFの世界で、アンチ技術で暮らして、人間らしい暮らしを!!みたいな話とも通ずるものがある。





おわりに

ある程度の年齢になって、積み上げてきたものがあるし、内向的で理想主義者的な気質のおかげで、AIが最高レベルに進化しても、その時にも自分はなにかを考えている気はする。しかし、生まれたときからそばにある時代に生まれていたら、つまり、自分を思考を肯定できないひ弱なときならば、こんなライオンには簡単に負けて食べられてしまう気もする。

もっともっと未来には、こうかくきどうたいの電脳とかみたいに、遺伝子や脳の形状やらで、その技術を使えるか使えないかの時代になって、さながら、魔法を使えるか使えないかの漫画みたいな話で人間のランクや格付けがおきて差別がおきて、その技術が使える遺伝子の人間だけが生き残るみたいな未来すらあり得そうだ。倫理的に禁止とか言いつつも、絶対ヤバイ国が手を出して、皆仕方なく追随してそんな未来になるのだろう。嫌な未来だ。完成形を描くこと(正論)は変わりないだろうが、流されてしまう人間が今以上に増えるのは目に見えている。


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