「坂口安吾の堕落論は聖書である。」

「坂口安吾の堕落論は聖書である。」

電気ヒーターの前に座って、本の表紙が熱くなるのにも気づかないほど読み入っていた。友人が出してくれた茶はずいぶんぬるくなっていたけれど、ただ唇を濡らすためだけのように口に運んでいた。「はぁおもしろいな。」と一ページごとに声を出すと、友人は「嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」と坂口安吾の真似をする。彼は森見登美彦の本を読んでいる。駅前のラーメン屋に行こうと言いだしてからもう二時間経った。お互いに二度ほど、「そろそろ」と言って本を畳んだけれど、あいにく片方が本から手を離さないのでこの有様。堕落論を何度目かわからないが読破し、本を畳んだ。彼もきりがよかったのだろう、本を畳んだ。さっと身支度を整えて部屋を出る。「坂口安吾は革命家なのだろうか。」と口に出すのはいつも僕のほうだ。「文学は革命じゃない。」と言いながら割腹自殺をする三島由紀夫の真似を見せてくれる彼は類い稀ない僕の友人だ。駅前の美味いラーメン屋はいつものごとく大行列で、僕らはすっかりその気が冷めた。彼が財布の中身を確認するので、少し覗き込んでみると分厚くみえた。「じゃあどうしようか。」と尋ねると、「酒でも。」と言うので僕もすっかりその気になって、サザエのつぼ焼きが美味い店に入る。

「サザエはいつ食べられるのか目安がわからない。」「ならば、サザエと話すに限るな。」
サザエと話し始めた友人の顔はこれほどに哀愁漂うものだったであろうか。どうやらぼくら、今夜は文学の夜であるらしく、過去の文豪をあてに酒をのむ。そのうち話は現代に結びついて、悲しい話になる。「小説というものが一番の芸術であるはずなのだ。」そう胸高らかに言えるほど僕は酔っていた。「それは戦後の話でしょう。」友人の顔はすっかり、この店の暖簾くらい赤い。「今や芸術が分散された。ちょうど薄まって、とても薄い状態で人々の生活にある。戦後の日本に芸術が薄まる余裕などなかった。」とても早口でまくしたてる僕。「みんな小説に熱中したわけだ。」と友人。表現者とは芸術家である。その表現者は選ばれしものであるべきだと僕は思っている。友人がそう思っているかはわからないけれど。分散しているというのは、だれでも表現者になり得るということである。それ自体はとても素晴らしいことだ。だが、飽和した。そして芸術を芸術として受け取る感受性が消えた。芸術は共感とファッションになったのだ。もっとも文学は衰退のみ。僕にとっての文学は宗教的な熱狂であり、神への道を導く聖書であるのだ。

いまやストーリーがすべてだ。起承転結だ。それが民衆に受けるのは、民衆がぬるま湯に浸かっているからだ。どうあがいたってこの国では豊かになり得る。戦後あの時代、生活そのものがぬるま湯どころが下水なのだから、ストーリーなどどうでもよかったのかもしれない。もちろんあんな時代だからこその喜劇が好まれたのだろうが、きっと半数は下水の生活で刺激や喜劇は事足りていた。いまやぬるま湯の時代、本当の堕落など求めておらず、ただぬるま湯に少し追い焚きするようなストーリーが求められている。

「少し熱くなりすぎ。話にまとまりがなけりゃそれはもう戯論だぞ。」やけにすかしている友人にムッとしながら、冷えたグラスで頬を冷やした。「ぼくら現代の詭弁論部だ。」森見登美彦の小説に感化された友人はサザエに醤油を垂らして飲む。「とんでもない詭弁、犬も食わない。」ぼくも真似をする。「ならばなぜお前は小説家にならない?」友人が問うてくる。この質問がぼくらの「そろそろ」の合図だ。「今の世間に文学小説は必要ない。」「甘えだ。」「どうせ僕には才能がある。ただそれをこんな腐った世間に否定されたくないのだ。」勢いよくグラスを空にして、机にボンと置いた僕。「今日はやけに正直だな。」友人はもうコートを着ている。

勢いよく店を飛び出して、「寒すぎる。まだ人間は地球に適応できていない!」と叫びながら友人の部屋に戻る。夜に冷やされた二人であった。そうだ、ただ文学が好きなのだ。


#小説 #短編小説 #文 #散文 #エッセイ #文学