見出し画像

パトスと歓喜の淫らなホルモン

前回は本気で泣きたい人のためにと「苦海浄土」をお薦めした。この本で私の涙がとめどもなく噴出したのは事実なのだが、もしかするとこれは私だけの現象かもしれず、実際のところこれで泣いたと告白する人には出会ったことがなかった。

それどころか、これを読んで私が泣いたというと、たいていは怪訝なというかいかがわしい顔をされたものである。

特定の本を読んで「さあ、大いに泣きましょう」などと主張したり、「泣いたよ」と告白するのは世の謹厳な読書家の間ではルール違反にでもなっているのだろうか。それとも男としてそんなめめしいことは人にいいたくないというようなプライド意識というかマッチョ心理の機序でも働くのだろうか。

そこで私はもう一度、声を大にしていっておきたい。

石牟礼道子の「苦海浄土」は泣ける。

これはただの反公害小説ではない。水俣病の被害者の声にならない「おめき」というものを石牟礼道子がそのたぐいまれなシンパシーあるいはエンパシー能力を全開にして感じとり、苦境の被害者に憑依したかのように、慈悲力をほとばしらせて書き記した魂の書である。

いや、なにもこの本の宣伝をするのではないが、降って湧いたようなコロナ禍でみんなが萎縮してしまっているいまこそ読むにふさわしい本だと思うのだ。

と、まあ、こんな調子で私はこれまでも誰彼にとなく直情的に「苦海浄土」を薦めてきたのだが、水俣病がテーマだし、おもしろおかしく読めるような本ではないという先入観があるのか、それでもやっぱり周囲の反応は鈍かった。

それがである。ごく最近になって本好きの友人Kから「あれ、読んだよ」というメールがあって驚いた。

彼は分厚い藤原書店版ではなく講談社文庫で読んだというのだが、そのメールには「感動した。こんな本は読んだことがないというぐらい感動した。どうして今まで読まなかったのか、今はただ放心状態」と打ち込んであった。

おお、と私は思った。

この本の哀切な言葉の数々を、慈悲や苦境を、共感し共有できる人間が身近にいたかと思うと、それだけで私は熱くなってしまったのだった。

なので、素直というか軽率というか直情的な私はそのすぐ後に「苦海浄土」をめぐるおしゃべりがしたくてたまらなくなって彼に電話をした。

それでさっそく、どこに感動してどこで泣いたかといったようなことを聞いてみたら、彼は……泣かなかったというのである。

一度も?

感動して今も放心状態ではあるけど、「泣きはせんかったなあ」とKはあえて「苦海浄土」の九州弁を真似ていうのである。

ショックだった。

そのうえKは、「そうか、Uはやっぱり、本当に泣いてしまったのかあ」と憐れむようにいうのだった。

私は、肺から空気が抜けて風船みたいにしぼんでしまった。

これはもしかしたら、あの九州・水俣の方言がよくわからなくて味わいが半減してしまったのではないだろうかと思いついて(ちなみに私は九州出身である)それを伝えたところが、彼は即座に、いやそれはちごうとると、またしても見よう見まねの九州弁をひねくり回していう。

あの方言の魅力は僕みたいな関東の人間にもわかるよ。それを活かした苦海浄土のすばらしさも読めばわかる。感動するよ。だけど、それで泣くかっちゅうとなあ、そりゃまた別の問題のような気がするけどなあ。

ちゅうことは、この俺は、やっぱり例外だったのか。異例っちゅうか、異質ちゅうか、アホっちゅうか、熱いっちゅうか、単純っちゅうか。この勢いでまさか変態の域にまで突入しているのではなかろうな。うわあっ。

私と違ってどこまでもクールなKにその点を指摘されて以来、コロナのおかげで暇な私はそこのところが気になって気になってしかたがない。

苦海浄土を読んで泣いたのは、この私なんである。

九州の山奥で蛇や猪やキジや猿や鬼なんかと一緒に遊んでホイホイ育った私が突発する雨風の天然現象のように涙もろいのは確かなことである。

生まれも育ちも東京都民で沈着冷静容姿端麗冷酷無情なKからみたら、私の直情径行ウルウルの桃太郎ぶりはやっぱり度が過ぎるのだろうか。

西洋哲学に明るくて概念を重視するKは確かに、どこまでもホットな私と違ってクールなところがある。クールは英語でも怜悧で高級でハンサムでカッコイイのような意味で用いられることが多いので、その反対語のホットな私は要するにカッコワルイ。

しかしなあ。

Kとの電話を終えてから私は、「涙もろくて何が悪いか、男が泣いてどこが悪いか、クールじゃなくてホットで直情的でカッコワルイこの魂のどこが不都合なのか」などとどうにも気持ちをおさめられずうろちょろしたあげく、これはクールだのホットだのとありきたりに区分けしようとする自分の考え方自体が間違っているのだという結論に達した。

そしたら唐突に、ホットを言い換えてパトスにしたらどうだろうか、思いついたのである。

そう、「パトス」という小生意気で古くさい哲学用語に頭の後ろのあたりをチョンチョンと小突かれたのである。

パトスだよ。

そうだよ、苦海浄土を読んで俺が泣くのは貧乏くさいホットのせいなんかじゃなくてもうちっとアカデミックなパトスのせいなんだよ。

なんでこんなところにパトスが、とは思われるだろうが、とにかくいっぺん口をついて出てきてしまったものはしかたがないので、すなおに言い換えてみることにした。

それで、あらためて、パトスなのだが。

パトスはギリシャ語で、心が激しく一時的に揺り動かされる状態、激情、のこと、などというと堅苦しいが、パッションの語源でもあるところからみて要するに理知的ではないという……!?。

理知的ではないなどと面と向かっていわれたら腹が立つが、それはたぶん反教養的なパンク野郎(これまた古いけど)のことなのだとここでまたまた思いついてむりやり変換してみたら、それが私の目論見にぴったりなので、そうだ、パトスとは反教養的なパンク野郎の、天然系丸出しの直情的なこの私のことなのである、という結論に到った。

つまり、ホットはやっぱりパトスの問題だったんである、ということにしておきたい。

自分の性格の現状に照らしていうと、ホットはまためくらめっぽう暴発するカオスでもありうるような気がしないでもないのだが、カオスというとどうも魚のカマスや人間のオカマやなにかと間違われそうで不本意なので、ここではやっぱり哲学系のパトスのほうと合体しておきたい(カマスとかオカマの皆さん、すみません)。

パトス、パトス、パトス。

ラテン系のマンボ・リズムで奏でられる私の熱いパトスは、恋をしても音楽を聴いても何をしても、歓喜の淫らなホルモンとなってドバドバ噴出する。

それだから俺はところかまわず泣いたりするのだ、と、これでどうだろうか。辻褄は合っているかと思うが。

ホットだったらただの英語でファミレスのドリンクバーみたいのコーヒーみたいで安っぽいが、パトスだと、なにしろギリシャ語だからワインとかプラトンみたいな高級感がある。

確かに私はホットで、涙もろくて、アナログで、天然の生活を好み、音楽も女性も好きなので、そういうもろもろの事実をもってしても、パトスがないかといえば、ある。

いや、大いにある。

うん、高級感に加えて肯定感が前面に出てきたところで、また。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?