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私たちには奥の手があるー「空芯手帳」を読んで

新卒で入社したのは葬儀会社。社内外も認めるそこそこのブラック企業だった。良く言えば伝統を重んじる由緒正しき会社で、悪く言えば古いルールに異常なまでに執着した昭和の置き土産みたいな会社だった。

「空芯手帳」の帯には、こう書いてある。

職場にキレて偽装妊娠

いや、面白くないわけがないだろう、と直感し、確信した。同時に、読まねばならない責任感にも似た気持ちを抱いた。なぜなら、私もかつて職場でキレたことがあるから。それはもう、キレ散らかしていたから

・来客があればまず私が対応
・季節に合わせてお茶かコーヒーを人数分用意する
・事務所のゴミが溜まり溢れかえっていたら私が対応
・コピー機の用紙やインクトナーを管理するのも私が対応
・掃除も私が対応

入社した当初は疑問にさえ思わなかった。入ったばかりだし、新人の仕事なのだろうくらいに考えていたからだ。

しかし、それはどうやら違った。

当時の職場に女性は私ひとりだけ。老若問わず男性社員はたくさんいた。どうやら「女性だから」という理由だけで、自然と対応させられていた仕事ばかりのようだった。

女性なら、こんな風に性別による役割を押し付けられた経験が、少なからずあるのではないだろうか。

「空芯手帳」の主人公のように、偽装妊娠をして育休・産休を取ってやろうという発想はなかったけれど、結婚したフリでもしていわゆる「寿退社」をキメてやろうとは何度も何度も企んだ。後腐れなく、かつまっとうに辞められる理由がそれくらいしか思いつかなかった、というのもある。

偽装結婚や偽装妊娠をせずとも10回ほど「辞めたい」と抗議すれば辞められる環境だったのは、ギリギリ運が良かったと言えるのかもしれない。

「女性だから」だけで割を食う事案は、私たちが思っているよりも各所で発生しているのだと思う。

「女性しか子どもを産めないから」という理由だけで育児の主体者にされるのもそうだ。本作にあるように、あくまで女性は子どもを産める身体の造りになっているだけ。それゆえに「出産」という役割を担っているだけの話である。

にも関わらず、なぜか父親側は「産んだのは母親だから」ともっともらしいことを言って距離をとる。お客様視点に早変わり。「社会科見学かよ!」というセリフが本作に登場するけれど、まさにそのとおりだ。ふたりの間の子どもなのだから、女性が「産む役割」を終えたあとは、その後ともに「育てる役割」を担わなければならない。たった、それだけの話なのに。

「女性として生まれたこと」を理由に、望まないネガティブを押し付けられるのなら……私たちは、女性しか使えない荒業を使って社会に抵抗するしかない。偽装妊娠。それがそのうちの業のひとつだ。その様子を、本書でまざまざと見せつけられた。華麗な技術を目の当たりにした。

いざという時には、私たちには奥の手があるのだ。そう思えるだけで、もう少し楽に生きられるかもしれない。女性であることを、呪わずにいられるかもしれない。


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