今、ここからやり直す日常革命ー「平熱のまま、この世界に熱狂したい」を読んで
なぜだかどうして、どのコミュニティにも「染まりきれない」のが、薄ぼんやりとした悩みだった。
小学校、中学校の頃の同級で現在も繋がりのある友人は皆無。高校の頃の友人はかろうじて3人繋がっているLINEグループがあるけれど、滅多なことがない限り稼働しない。大学の頃の友人がたったひとり、今も強く繋がっている唯一の親友だ。社会人になってからは、言わずもがな。
それなりに職場も転々としてきた。転職は4回もした。業種も業界もバラバラで、わたしがしっかり目の前の人たちと向き合っていれば、そこそこの人脈を築けたのであろう。不思議とどの組織にも、どの人とも馴染めず、今でも連絡を取っている人は皆無である。
環境が悪いのではなく、私が悪い。
昼食はひとりで摂りつつ自分の時間にしたかったので、つるんでいたパートさんたちに「明日からひとりで休みますね」と宣言し、突然単独行動を始めたりした。
理由を述べなければ有給をとらせない主義だった上司に食ってかかり、「それ違法ですよ」と捨て台詞をはいてディズニーランドに遊びに行ったりした。
ぜんぶ、私が悪い。
2018年春からは、フリーランス目指していろいろと頑張らなければ!と一念発起し、オンラインサロンに入会しまくっては退会を繰り返した。ほんとうにほんとうに謎でならないのだけれど、どのコミュニティにもハマらない、ハマれない……。
わたしがどこか、一歩引いて世の中を見る癖があるからだろうか。所詮、人間同士は分かり合えないと諦め、疲れているからだろうか。
いや、違う。
自分の「強さ」と「弱さ」を、掛け違えてきたからではないだろうか?
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宮崎智之さんの「平熱のまま、この世界に熱狂したい 『弱さ』を受け入れる日常革命」を読んだ。
愛犬の話、お父様を亡くされてからご自身に起こった変化について、急に路地裏に呼び出して、やにわに「僕は君のこと大っ嫌いだ!」と叫んできたA君のこと、アルコール依存症により二度も急性膵炎にかかった過去、離婚。
それはそれは、ご自身の弱さを包み隠さないエピソードのオンパレード。
文章を追いながらずっと思っていた。「ああ……人間は弱くてもいいんだ……」という、どこか許しを得たような気持ち。いやそもそも、人間はもともと弱い生き物だった!と思い出させてくれる爽快さもあった。
わたしは、ずっと、強く在らなきゃならないと思っていた。
自分のことは自分でやらなきゃいけない。自分の始末は自分でつけなきゃならない。なるべく失敗してはならないし、人に迷惑もかけてはならない。滅多なことがない限り、頼ってはならない。
本書にも出ている「自己責任論」ずぶずぶの人間だった。過去形で書いたけれども、未だ抜け出せているか判断しかねる。
自分が自分を律せているのだから、他の人にだってできるはずだ、できない無理だと言っている人たちは、自分と環境に甘えきっているのだと、断じている節がどこかに残っている。
私はきっと、強い。フィジカルもメンタルも。決して運動神経抜群ではないけれど、入院も手術も未経験の健康体だ。言いたいことを口にできるし、それで嫌われても仕方ないと割り切れる。自分のストレスを自分でゼロにできるスキルもある。
私のもつ強さはいつの間にか肥大し、接する周りの人への圧になっていった。私が頑張れるんだから、あなただってできるはず。こうすれば簡単にできるのに、やれないのはあなたが「弱い」から。
「私は強い」という勘違いが、自分の弱さと他人の弱さにまとめて蓋をしてしまった。見えなくさせてしまった。人であれば当たり前のように持ち合わせている弱さ、意外と簡単に揺らぐ決意や約束、場所が変われば言うことも変わる七変化を、ないものにしてしまった。それが、私の思う強さと弱さの掛け違いだ。
この掛け違いは、気づかれぬまま放置されるとどんどん、どんどん、酷くなっていく。私はとんだ勘違い野郎だった。まだまだ抜け出せてはいないけれど、宝物にしたい言葉たちに出会えたから、きっとまたこの瞬間からやり直せる。
自分の美しいと思うものを、踏みにじらないでも生きていけること。あらゆる二項対立を超え、人間が人間であり続けられること。人間の「弱さ」に敏感で、それについて常に思考し続けること。
私もここから、やり直す。
「強さ」と「弱さ」をかけ違えないように。
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