武田塾讃歌/惨禍 ⑤参考書学習の光と影3「言うは易し、行うは難し」
以下は、学校教育(特に高校)における中間成績層(進研模試偏差値40~75あたり)を想定して書いておりますので、ご理解下さい。また、この記事から読み始めて頂いても大丈夫ですが、①または②の記事から順番にお読み下されば幸いです。
通信制高校が受験に向けての最強手段なのか
参考書原理主義
武田塾が提唱する参考書最強の思想を急進的に突き詰めると、
参考書が最強 → 授業は不要 → 学校は不要
となって、「大検を取っての大学受験や通信制高校に在籍しての大学受験が最も(学力向上と時間的効率の関係における)コスパが良い」という考え方にも行き着き得る。ここまでいくと一体受験とは何なのか、学校とは、人生とは何なのかという哲学的問いにまで昇華しそうだが、ともかく、そういう考えも、考え方としてはあり得る。
これは 参考書原理主義 とでも呼べそうな価値観である。
確かに、こと大学受験という一つの目標に絞って考えるならば、高校に通うということは、通学時間を奪われたり受験に関係ない教科の勉強までやらされたり、自分のレベルに合っていない授業も受けさせられたり行事や課外活動などに時間を奪われたり、効率の悪いことも起こっていそうである。
じゃあ高校になど通わずに(あるいは通信制で)参考書をメインとした受験勉強に励めば圧倒的に学習がはかどるかと言えば、おそらく皆さんご想像の通り、そう上手く進むとも思えない。机上の理論と現実は異なるのである。
浪人すると成績は爆上がりするか?
そもそも、「高校になど通わずに」「受験勉強に特化した生活」を送っている人は従来からいますよね。どんな人たちかって? そう、言わずと知れた 浪人生たち である。浪人生たちは予備校で授業を受けさせられているから効率が悪いのではないかというご意見もあると思うが、昔から浪人生たちが年度の後半になると予備校の授業を「切る」(出席しなくなる)のは定番の行為ですから。「休みすぎれば卒業の可否に関わる」「学校」に通っている高校生たちよりはよほど効率を考えて動くことができると思います。
では彼らは高校に通っていた現役当時よりも飛躍的に力を伸ばして自分の志望校にバンバン合格してくるか?
答えは、「否」ですよね。
むしろ1年後に大学入学共通テスト(旧センター試験)の得点が落ちる例だって珍しくはない。
社会的動物としての人間
時間と優れた教材が十分に与えられれば人は勉強する、そんな簡単なもんじゃない。孤独に押しつぶされそうになることもある。モチベーションが続かないこともある。ゲームなどに逃避してしまうこともある。生活が不規則になってしまうこともある。
毎日決まった時間に高校に登校して授業を受ける、ということは、そういった外的なサボリ要因を日常的な行動習慣によって封じ込める力として働いている。学校という機構のこの重大な機能を見落としてしまってはおかしなことになると思いますね。コロナ期に会社がリモートワーク推奨になって、「リモートワークする」という体で家でこっそり仕事サボっていた大人たち、多いんじゃないでしょうか???
また、学校という場は、確かに授業を受ける・学習を行う場としての機能を担ってはいるのだけれど、それと同時に社会的なコミュニケーションの場であり個人の生活の場でもあるわけですよね。ここで人間が「社会的な動物」であるというその特性が否応なく表れてくる。毎日の生活を共にする仲間たちと空間を共有して学習することで、あるいは刺激し合って学習することで、自学自習の意欲も増したり相互コミュニケーションの中で理解が深まったり、そういう正の効果が生まれてくる。
確かに参考書を読んで学習する、という行為は効率がいい。その時に自分に必要なことやレベルにあったことをピンポイントで学び、自分の力に変えていくことができる。
しかし学習行為を行う人間は効率だけでは測れない存在である。周りの環境や個人の精神状態や健康状態によっても仕事の能率は上がったり下がったりする。理論だけでは語れないのが精神を持った人間という存在である。
それでも、「授業は役に立たない」「参考書が最強」でしょうか?