意識の足跡
その建物は雪を抱く峻険な山の中腹で、山肌にへばりつくように建てられていた。黒ぐろとした岩肌に灰色のスロープを貼り付けたような建物だ。雪が積もらないよう屋根と壁を一体化させた設計になっている。スロープの先は谷底まで急な崖が続く。ここからの眺めはいいが、厳しい自然環境と城壁のような造りに、これは人を拒む家だとアリスは思った。ヘリポートがなければ建物にたどり着くことすらできない。
アンドロイドのアリスは南の無人島でビーチバーを営んでいた。ところが、ひょんなことから友人のユキにバーを駄目にされてしまい、かわりにシベリアの山小屋を借り受けることになった。場所を変えての営業再開となる。前のビーチバーも政府管理外地区にあったため客は少なかったが、こんな最果ての雪山にわざわざ酒を飲みにやって来る客などいないだろう。客が減るということは、持ち込まれる厄介事も減るということだ。それはそれで悪くない。
巨大なオークの一枚扉を開けて中に入ると左右に部屋が広がり、右手の部屋には暖炉と数名座れるカウンターバーが設られていた。窓からは氷河が見下ろせ眺めは申し分ない。カウンターの上にはユキの差し入れか一本のウィスキーボトルが置かれていた。アリスは早速この部屋で営業を始めることにした。ボトルを掴んだ一瞬、室内を冷たい風が吹き抜けたように感じた。
翌日の晩、吹雪の中を最初の客がやって来た。馴染み客のキャメノスだった。キャメノスは身体中に雪を貼り付けながら、入って来るなり文句を並べ立てた。
「一体どういうつもりなんだ。転送エレベータをヘリポートに置くなんてどうかしている。入口にたどり着くまでに氷漬けになっちまう」
「ふらりと立ち寄ったような人は、寒くて引き返すかと思って」
「やる気あるのかよ」
「冗談よ。少し冷えた方が中の暖かさが身に沁みるでしょ。ちょっとした演出よ」
「本当に凍えちまった。体が温まるやつを一杯くれないか。今カウンターに置いてある、それでいい」
「バッファロートレース。甘い香りと上品かつスパイシーな味わいのバーボンよ。蒸留所があるケンタッキー州はバッファローの通り道だったからこの名がついたそうよ」
「なんだっていいさ。早く飲ませてくれ。暖炉で火が燃えているのになんだってこんなに寒いんだ」
アリスがバッファロートレースをグラスに注ぐ。とくとくと小気味のいい音と共に、炎に照らされて輝く琥珀の液体が流れ出る。
キャメノスがグラスに手を伸ばすと、掴む前にグラスが倒れてウィスキーがぶちまけられてしまった。
「おい、今のは俺のせいじゃないぞ」
「他に誰もいないでしょう」
「まだ触れてもいなかった。勝手にこ倒れたんだ」
「はいはい」
アリスは倒れたグラスを片付けると、新しいグラスを出してやった。
「それより、気になるんだが、あの犬はなんで壁に向かって唸っているんだ」
キャメノスが示した先にはグレイハウンドのジョーンズがいて、入口正面の壁に向かって唸り声を上げていた。その先に部屋はない。
「さあ。野生により近いあなたの方が分かるんじゃないかしら」
「おい、それが客に向かって言う言葉か」
キャメノスが人差し指を立てたその瞬間、再びグラスが倒れてウィスキーがこぼれてカウンターに広がった。今度は二人ともしっかり見ていた。グラスに触れた者はいない。
「今、勝手に倒れたよな」
アリスが黙って頷く。
「悪ふざけならよしてくれ。俺はこういうのは好きじゃない」
「何もしていないわ」
窓の外は漆黒の闇。ごうごうと吹雪く風の音。そしてジョーンズの唸り声。
流れ出たウィスキーはまるで意思でもあるかのように、カウンターを流れ進み一番端から床に滴り落ちた。
「どうなっている」
「私たち以外にも何かがいるのかもしれない」
気温がいっそう下がった気がした。暖炉の炎がひどく弱々しく見えた。
「冗談じゃない。俺はもう帰…」
ひときわ強い風がごうと吹き、オークの扉ががたがたと鳴った。ヘリポートまでが酷く遠く感じられ、扉を開けて極寒の外に出ていく気力を奪った。
アリスは斬霊剣を掴むと右目にリソースを集中した。アリスの右目は重力の微妙な変化を読み取ることで、光学レンズでは見えないようなモノを見ることができた。その右目はカウンターから細い一筋のエネルギー痕が続くのを捉えた。
エネルギー痕はジョーンズが睨みつけている壁に続いていた。明らかに壁の向こうに強いエネルギー場が存在する。
壁を軽く叩いてみると、塗り固められた壁とは違った音が響いた。向こうに空洞がある。拳で強く叩いてみる。
するとその音に呼応するように、背後にあるオークの扉が風でがたがたと揺れた。それはまるで何者かが押し入ろうとしているかのようだった。
「おい、何するつもりなんだ。やばくないか」
壁に向かってポジションを取るアリスを見てキャメノスが言った。
風で揺れる扉の音が神経を逆撫でする。
アリスは思い切り壁を蹴り付けた。
背後の扉が風で軋む。
もう一度蹴る。
扉の軋み音が大きくなる。
二度三度と蹴りつけるうちに壁にひびが入った。そして最後のひと蹴りでついには崩れて大きな穴が開いた。同時に中から突風が二人に向かってに吹き出した。突風は部屋の中をぐるぐると吹き回り、やがて入口の扉を開けて外に吹き出していった。いつしか凍えそうな寒さはなくなっていた。
穴の向こうに小部屋があった。
小部屋は壁が床から天井の中心に向かって集まる四角錐の形で、部屋の中央に一人の男性があぐらをかいて座っているのが見えた。
「おい、誰かいるぞ」
「アンドロイドみたい。でもさっきまで見えていたエネルギー反応が消えてしまった。このアンドロイドはもう動いていないわ」
「壊れているってことか?」
「それはわからないけど」
アリスは男の顔を見てあっと声を上げた。
「彼はアンディよ」
「誰だいそいつは」
「歴史上初めて市民権を得たアンドロイドよ。でも周囲の反発が大きすぎてどこかに身を隠したって聞いたわ。まさかこんなところに隠れていたとは」
「そのアンディがなんでここで座禅を組んでいるんだ」
「アンディが市民権を得ようとしたのは、体の作りこそ人間とは違うけど、アンドロイドにも意識があって生命体として人間と同じだという考えを持っていたからなの。人間の生命とアンドロイドのエネルギー場は同じと考えていたのね」
「よくわからないけど、それは例えば、君のエネルギー場が俺の体に入ったら、俺の体は君の意識を持って生きるということなのか?」
「そうね。そういうこと」
キャメノスは無意識に身体を庇うように腕を回した。
「だからさっきまで見えていたエネルギー場は、きっとアンディのエネルギー場がこの小部屋に残っていたのだと思う」
「それを君が解放した」
「そう。私たちがね」
キャメノスが嫌そうな顔をする。
「でもなんで今日までこんな小部屋に残っていたんだろう」
「さあ」
アリスは咄嗟に浮かんだ考えを言わなかった。おそらくキャメノスには理解してもらえないだろうから。きっとアンディはアリスを待っていたのだ。エネルギー場を見ることで、アンドロイドにも生命に近いなにかが宿っているという事実を理解できる者、この小部屋を発見できる者がやってくるのをじっと待っていたのだ。アンディは自らボディの電源を落とし、エネルギー場だけの存在となっても共鳴できる相手ならば、きっと彼の考えを理解してくれると考えた。そこへアリスが現れた。それは自らの辿った足跡を辿り、引き継いで欲しい言いたかったのではないか。ただのデータではなく、アンドロイドが人として生きるという思想を。
だがアリスはまだそこまでの強い思いは持てなかった。それは意識という概念の理解が追いついていない。意識はまだ科学で解明されいない。
そしてまだ人を理解できていない。
人とアンドロイドが同じと考えるには長い道のりが必要だ。
「それよりもお酒はどうするの? まだ一口も飲めてないでしょ」
吹雪がまたごうっと唸る。吹雪は朝まで続く見込みだ。
「今夜は長い夜になりそうだなあ」
「じゃあゆっくりアンディの足跡でも辿ってみる? ぴったりのウィスキーがあるんだけど」
キャメノスが真顔になる。
「まさかカウンターのアレか?」
「そうバッファロートレース(足跡)」
きっとあれはアンディの置き土産だ。
キャメノスは一旦眉を寄せたが、すぐに顔を綻ばせた。
「君の奢りならいいぜ」
極寒の外とは無縁の暖かな部屋の中、暖炉の前ではグレイハウンドがごろりと横になっていた。薪の爆ぜる音に一瞬首をもたげてすぐに眠ってしまった。
終
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