犬と氷柱とロックグラス
アリスはボールを放り投げてからちらりと犬を見た。
グレイハウンドはボールに興味を示さずべたりと寝そべったまま身じろぎひとつしなかった。
ボール投げを朝から百回も繰り返していた。いくら犬でもいい加減興味を失うのも無理はなかった。そんな倦んだ空気の中その男はやって来た。彼がエアタクシーから降り立った瞬間に空気が澄み渡る気がした。
第一印象は南国のこの浜辺によく似合う男というものだった。白いスーツを華麗に着こなし、眼差しは見る者の心を溶かすような甘さがある。整っているのは顔立ちだけでなく、振る舞いそのものが洗練されていて美しかった。
もしアリスが人間だったなら、間違いなくひと目で恋に落ちていただろう。
男の名はミノベといった。ミノベはスツールに腰掛けるなり、アリスの片手を取った。
「君はなぜこんな場所で働いているんだい。あなたほど美しいひとならば、ラスベガスにいるのが相応しい」
「なぜって、それは私が面倒な立場のアンドロイドだからよ」
ミノベは軽やかに笑った。
ここは政府管理外地区にある無人島。アンドロイドのアリスが営むビーチバーだ。政府管理外地区にあるせいで客は少ない。たまに来る客は政府と関わり合いたくないような連中ばかりで、そういった客は大抵厄介事を連れて来る。
アリスにはミノベが自分を口説きに来たのではないことは分かっていた。彼の不安定なバイタルデータがそれを示している。
「ご注文を先に聞くべきかしら」
ミノベは鞄から一本のウィスキーボトルを取り出した。ラベルにはシンプルな文字で『余市』と書かれている。スコッチの本場ヘーゼルバーン蒸溜所に習い、北海道余市市で蒸留された本格シングルモルトウィスキーで、力強いピート香とリッチな味わいが特徴だ。
「本物が手に入りづらい昨今、なかなか大した品揃えだね。こいつもそこに加えてもらいたいな」
今までアリスが手を貸した者たちが置いていったボトルが、酒棚にずらりと並んでいる。
「ひとつ頼みを聞いてもらいたいんだ」
いつからそうなったのか、本物のウィスキーを手土産にすると、アリスがどんな仕事も引き受ける、といった噂が流れていることはアリス自身知っていた。もちろんそんな事をふれて回った覚えはない。
「困っているんだ」
「私はただのバーテンよ。人助けはやっていないわ」
「実は命を狙われている」
ミノベがボトルをぐいっと押し出す。
「そういった事なら警察に行くことをお勧めするわ」
「どうしてもだめかな」
ミノベは一旦顔を伏せてから、風のようなしなやかな流し目でアリスを見た。
だが、いつもの仕草がアリスに通じないと分かると、僅かに苛立ちと焦りを見せた。
「お願いだ。あいつは恐ろしいやつだ。君でなければ太刀打ちできない」
「どういう事かしら」
ミノベが唇を噛む。表情に余裕がなくなっていた。それでも言うべきかどうかを迷っているようだ。そうしてしばらく悩んだあと、意を決して口を開きかけた時、辺りに雷鳴が轟いた。
いつしか晴れ渡っていた空を分厚い雲が覆い、汗をかくほどの日差しは閉ざされていた。気温がぐっと下がりここが南国であることを忘れてしまうほどだ。
ミノベの顔がこわばった。
「ああ、まずい。見つかった。今度こそ殺される」
何かが近づいていることはアリスにも分かった。アリスはエネルギー場を見ることができる右目で辺りを見回した。
アリスの右目は重力の僅かな変化を検知することで、人間や高エネルギーを持つ者のエネルギー場を見ることができた。エネルギー場は人それぞれみな違うし、その人の中でも思考や動作によって大きく変化する。それを見ることで、アリスは相手がどう動こうとするのか、ある程度予測できた。
そして今、島全体を大きなエネルギー場が取り囲んでいるのが見えた。それは台風のように島を中心に巨大な渦を作っていた。
「一体何が起こっているの?」
「来たんだ。分からないのか。あいつが来たんだよ」
ミノベは隠れる場所を探しておろおろと動き回った。だがここは小さな無人島。建物といえばビーチバーの小さな屋根とカウンターくらいだ。
気温はぐんぐん下がり、遂には雪が舞い始めた。いまだかつてこの島に雪が降ったことはない。雪はあっという間に本降りになり辺り一面を白く染め上げた。やがて強い風が吹き始め横殴りの吹雪に変わった。
その吹雪の向こうから誰かが近づいてきた。
白い和装の女性だった。
美しかった。まるで天然の氷柱のような透き通った美しさ。
「ユキ。頼む。勘弁してくれ」
「あなたは私を裏切らないと約束したはず。そのあなたがこんな所で女性を相手に何をしているの?」
「ただ酒を飲みに来ただけだ。本当だ。信じてくれ」
ユキはミノベとアリスを見比べた。そしてアリスがミノベ好みの美形であることを見て取ると、怒りに顔を歪ませた。
「誰がそんな嘘を信じるか。この嘘つきめ。今度こそおまえを氷漬けにしてやる」
ユキが片手を突き出すと、まるで弾丸のような雪礫がミノベに襲いかかった。
「助けてくれ」
アリスはとっさに斬霊剣を抜くと、ミノベとユキの間に立ちふさがった。ユキがただの人間ではないことは明らかだ。斬霊剣で斬れる相手なのか。だが目の前で人が襲われるのを黙って見ている訳にはいかない。ユキから放たれる雪礫に向かって正面から切りつけた。
すっと吹雪が左右に割れた。エネルギーの流れを切り裂いたからだ。
ユキが一瞬驚いた顔を見せる。
「邪魔立てするな」
「理由は分からないけど、ちょっとひど過ぎるわ」
「お前には関係ない」
「ここは私の店よ。お店で暴れられるのは困るわ。言うことを聞いてもらえないのなら、力づくで出ていってもらうしかない」
ユキが鬼の表情に変わった。両手を大きく振り上げる。
アリスの右目はユキの両手先にエネルギーが集中していくのを捉えた。攻撃が来る。斬霊剣を横ざまに構え直す。
ユキが両手を力強く振り下ろした。同時に手先から猛烈な吹雪が吹き出してアリスたちを襲った。その強さは先程とは比べ物にならない。
アリスは両足を踏ん張ると吹雪を横一文字に切り裂いた。吹雪が上下に切り裂かれて分かれる。
だが、それもほんの一瞬だった。あまりに猛烈な吹雪の力に、アリスは海まで吹き飛ばされてしまった。すぐに戻らないとミノベが凍死する。立ち上がろうとしたが身体が動かなかった。驚いたことに海が凍ってアリスを完全に捕らえていた。斬霊剣を持つ右手も全く動かせなかった。
「私の吹雪はただの吹雪とは違う。どんな怪力でもその氷を割ることはできない。そこでゆっくりこの男の最後を見ているがいい」
カウンターの影に隠れていたミノベはもう恐怖で身動きすらできなかった。
そこへユキがゆっくりと近づいて来た。
「私を裏切ったのはこれで何度目だ」
ミノベは金魚のように口をぱくつかせるだけで、声すら出すことができない。そこには美しさも無ければ、洗練された仕草のかけらも無かった。まるで逃げ場を失った哀れな子犬のようだった。
その姿を見たユキは途端に鬼の表情を崩し、夢見るような表情でしなを作った。
「ああ、その姿。その表情。たまらなくかわいいわ。ダーリン」
唖然とするミノベ。だがすっかり吹雪が止んだことですぐに状況を理解した。いつしか雲はかけらもなくなっている。
「ゆ、許してくれるのか。ユキ」
「当たり前じゃないの。そんなあなたを愛しているわ」
「本当かい」
「本当よ」
この一言でミノベは一気に立ち直る。
「でも一つだけお願い。私がいるんだから、もう他の女を口説かないでね」
「も、もちろん。約束するさ。僕が約束を守る男だってことは、君だって知っているだろう」
「そうね。だから、あなたはお家に帰ったら、きっと掃除と洗濯と子守りもせんぶ引き受けてくれるのよね。私が帰った時に再び怒り出さないようにしてくれるつもりなんでしょう?」
「当たり前だよ。もちろん始めからそうするつもりさ」
ミノベは僅かに頬をひくつかせながら、やって来た時と同じように、優雅な足取りでエアタクシーに乗り込んで帰っていった。
なんということだ。こんな茶番のために辺り一面を氷漬けにしたというのか。
「夫婦喧嘩が終わったなら、私を開放してもらえないかしら」
「あら。ごねめんなさいね。ちょっと頭に血が昇っていたものだから」
ユキが手のひらを振るとアリスの周りの氷にヒビが入りたちまち砕け散った。
「理解できないわ。頭に血が昇るほど怒るくらいなら、どうして一緒にいるの?」
するとユキは頬を赤らめて身をくねらせた。さっきの鬼の表情からは考えられない。
「いやあねえ。あれほどの表情をする人は他にはいないわ。世界一なのよ。ほら私って死の縁に立たされて怯えた美青年の表情が大好物でしょ。お似合いのカップルだと思わない?」
「はあ」
そういえば民話でも美青年だけ助かる話があった。だがそれはアリスには到底理解できな愛の形だった。
「それはともかく、夫婦喧嘩は他でやっていいただかないと」
あたりは一面銀世界。ビーチバーの屋根は崩れ、カウンターもすっかり雪に埋もれてしまって見る影もない。防寒改良されているのか、喜んでいるのはいつしか居付いてしまったグレイハウンドくらいだ。
ユキは一瞬申し訳なさそうにしたが、すぐに顔を輝かせた。
「じゃあ、こうしましょうよ。ここの雪が溶ける間、私の住む山にいらっしゃい。山小屋を一つ貸してあげるから、そこでお店を開いたらいいわ。ねえ、あなたとは気が合いそうだし、是非そうしなさいよ。そうと決まったら乾杯しましょう」
これでは氷が溶けたところでひどい有様だろう。どうやら申し出に乗るしかなさそうだ。
ユキはミノベが置いていった『余市』を雪の下から掘り当てるとグラスに注いだ。寒い地方の水は引き合うから分かるのだそうだ。せっかくなのでアリスも『余市』の電子ウィスキーを飲むことにした。
ユキはカウンターにできた氷柱をグラスに入れた。グラスを軽くぶつけたときにこ気味のいい涼やかな音が響いた。
「あの犬、なんて名前なの?」
「名前って必要なの?」
ユキの勝手な決定で奇妙な展開になってしまったが、厄介事から逃げるにはちょうどいいかもしれない。ウィスキーさえあれば店の場所を選ぶ必要はない。アリスはうれしそうに飛び回るグレイハウンドを見詰めながら、吹雪の夜に暖炉の前で寝そべるグレイハウンドと、氷柱入りのロックグラスはとてもよく似合うと感じた。
「彼の名前はジョーンズ。そう、ジョーンズにしましょう」
ジョーンズは一度だけ嬉しそうに吠えた。
終
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