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安らかなディメンジョン

「ここはあなたの来る所じゃないわ。帰って」

 井之方がアリスのバーに訪れた時、最初に出た言葉がこれだった。

「そんなつれない事言うなや」

 井之方はアリスの元マネージャーだ。アリスが軍隊を除隊した後に流れ着いた地下バトルロイヤルの世界でアリスを支えていた。というより、アリスの実力を利用してボロ儲けしていた男だ。子供並みの小男で太り気味。禿頭に黒縁眼鏡という、いくらでも肉体改造できる世の中に逆行する容姿を貫いている。今は色々な事業に手を出しては失敗していると噂に聞いた。

「今日は商売の話をしに来たんや」

 井之方はアリスの許可もなくカウンターに陣取るとテーブルに一本の瓶を置いた。牛乳瓶ほどの大きさで美味しそうには見えない黒い液体が入っていた。そして味もそっけもない書体で黄色く『幸福ドリンク』と描かれていた。

「こいつを店で扱ってもらえへんかな」

 井之方はそう言ってやや卑屈な笑みを見せた。

 ここはシベリア奥地の山の中腹、切り立った岩壁に張り付くように建てられた山小屋バーである。アンドロイドのアリスが営んでいる。客はあまり来ない。たまにやって来る客は何故か厄介事を運んできた。

「厄介事はごめんよ」

「厄介な事など何もあらへん。ただ置いてくれればちいとばかし小遣い稼ぎができるっちゅうことや」

「もう一度言うわ。厄介事はごめんよ」

 井之方はまた卑屈そうに、へへへと笑った。だが黒縁眼鏡の奥の目は真っ直ぐ正面からアリスを見据えていた。この男はいつだってそうだ。決して本心を表に出さない。見てくれに騙されると痛い目を見ることになる。

「そやな。厄介事はわいもごめんや。ほな、酒でもひとつ貰おうか」

 井之方の注文は『I.W.ハーパー・ゴールドラベル』。見るからに金はありそうなのに、12年物を頼まないところがケチな井之方らしい。瓶の首にはシルクハットを被りステッキを持った紳士が描かれている。バーボンにあって非常に繊細でなめらかな味わいのウィスキーである。アリスは黙ってロックで出した。

「この、都会的で洗練された味わいはセンスがあるわいにぴったりやろ」

 そう言いながら井之方はハーパーを一気に飲み干してゲップをした。センスの欠片もない飲み方だ。

「さて、これでわいは客や。バーテンなら客の話は聞くよな」

 食えない男だ。アリスはしぶしぶ頷いた。

「ひとつゲームをしようやないか。簡単なゲームや。そう警戒すなや。何も危険なことしようゆう訳やない。ただ飲み比べをしよういうだけや」

 井之方のゲームのルールはこうだ。お互いに1オンスのウィスキーを飲む早さを競う。ウィスキーの種類は『I.W.ハーパー・ゴールドラベル』。井之方は本物を飲み、アリスは電子ウィスキーを飲む。先に飲み干したショットグラスをカウンターに置いた方が勝ち。実に簡単だ。

 あまりに簡単なルールに、アリスは井之方の目を覗き込んだ。だが目から魂胆を悟られる男ではない。その性格から何か企んでいるのは分かっていたが、それが何なのか分からない。

「それで私が負けたらどうなるの?」

「簡単や。この『幸福ドリンク』を店に置く。それだけや」

 アリスはアンドロイドだ。スピード勝負で人間が敵うはずがない。実に胡散臭いが、負けはないと判断してアリスは勝負を受けた。

 一杯目のショットグラスがお互いの前に置かれた。手はショットグラスの横。時計が電子音を発したら勝負開始だ。

 そして電子音が響いた。

 一瞬後、井之方のショットグラスがカウンターを叩いた。その時アリスはまだグラスを掴んですらいなかった。

「どういうこと?」

「どうもこうも、わいの勝ちや。もう一回やるか?」

 何故自分が負けたのか理解できなかった。アリスは真偽を確かめるために勝負を受けた。

 次の勝負も全く同じ結果になった。アリスは映像記録を確認した。電子音が鳴り始めて1/10000秒後に井之方のグラスからウィスキーは消えていた。どこにもトリックらしき動きは見つけられなかった。ただ、瞬時にウィスキーが消えるのだ。その後も三度同じことが繰り返された。アリスは一度もウィスキーを飲むことができなかった。

「さあ、こいつを店に置いてもらおか」

 井之方は酒臭い息を吐きながら言った。間違いなくハーパーの香りだった。

「どうして私より早く飲むことができるの? あなた本当に人間なの?」

 井之方がいつになく気味が悪い笑みを見せた。

「ディメンジョンや。わいはひとつ上のディメンジョンを使った。ひとつ上に行って、ゆっくり酒を味わう。そしてわいが勝つ結果を選択して同じ時間に戻ってくる。それだけや」

「ひとつ上のディメンジョンって、4次元ということ? そんなこと……」

「ありえへんわな。あんさんらには。せやけどわいにはできる」

 高次元は数学的には証明されているし、物理論理でも説明されているが、それを現実的に実証した人はいない。できるとはどういうことなのか分からない。困惑の目を向けるアリスに、井之方は面白いことを見せてやると言った。

 井之方はペンのような物を取り出すとカウンターに何か文字のような記号を描いた。それは複雑で平面に描かれているのに見る方向で見え方が変わった。

「これは重ね合わせた『経』爆弾や。爆弾言うても爆竹程度のもんやから心配せんといて。力を持った『経』を一文字、つまり二次元に重ね合わせとる。そしてこいつをひとつ上に引っ掛けておく。すると、ひとつ上を通った時に引っ掛かりが外れて『経』が発動する。さて、もう一回勝負しよか」

 井之方に言われてアリスはまたショットグラスにハーパーを注いだ。電子音と同時に井之方のグラスが空になる。そして同じタイミングでカウンターの記号がバチンと爆ぜた。暖炉の脇でグレイハウンドのジョーンズが音に驚き身を震わせた。

「わいが上を通ったんで、引っ掛かりが外れて『経』がその効力を発揮したんや。どや、おもろいやろ」

「でも、今言ったことが本当だったとしても、高次元に行ける人なんていないでしょう」

「そやな。わい以外にはそうおらんな。一人、二人、そんなもんや。まあ、その内の一人はかなりケッタイな奴やからちいと面倒やけど」

「ケッタイ?」

「テロリストや」

 そういって井之方はまた気味悪く笑った。

 それからしばらくして、バーに久々の客がやって来た。その男はひどくやつれて見えた。男はバーの内側を探るように見渡す。そして男は唐突に『幸福ドリンク』を注文した。

 こんな黒くてまずそうな飲み物を頼む人がいること自体不思議だが、男は満足そうにドリンクを飲み干した。電子ドリンクがないのでどのような味だかアリスには想像もできなかったが、男の恍惚とした表情を見れば危険な代物なのだろうと推測できた。

 男は次の日も、その次の日もやって来て『幸福ドリンク』を頼み、来た時とは打って変わって幸福そうな顔で帰っていった。

 そしてある時、やって来た男の身体には小さな猿のような生き物がびっしりと取り憑いていた。それは決して猿などではなかった。なぜならそれには毛がなく、目には瞳がなかった。そして巨大な牙を男の身体に突き刺して生気を吸い取っていた。男の顔は幽鬼のように青い。そして猿のようなものが牙を突き刺す度に身体をぶるりと震わせた。

「アレをくれ」

 アリスが止めるように注意すると、男はひどく怒った。そしてカウンターの内側に勝手に手を伸ばし『幸福ドリンク』をうまそうに飲むのだった。同じようにうまそうに男の体から生気をたっぷり吸い取った猿のようなものは、まるまると腹を膨らませてぽとりと床に落ちた。そしてころころと転がって暗がりに消えていった。

 男は足元もおぼつかない状態になりながら帰っていった。男は二度と現れなかった。

 そんなふうにして何人かの気味悪い客を受け入れた後、井之方がまたやって来た。

「どうや、繁盛しとるやろ」

「あれは一体なに? もうあれを売るのは止めるわ」

「そう言うなや。わいとあんさんの仲やないか」

「あなたとはそんな仲じゃないわ」

 眼鏡の奥で井之方の目が光った。

「そやな。そう言うと思ったで。せやから、あんさんの頭の上にどでかい『経』爆弾仕掛けさせてもらったわ」

 井之方が天井を指さす。

「この建物の上にな、ごっつい岩が出てるやろ。あれ、落ちたら流石にここもひとたまりもないやろ。あんさんの力で外せるなら外しても構へんけど、無理やろ」

「そんな」

「わいの店が潰れてしもうてな。売る場所が必要なんや。頼むで」

 井之方は「ヒヒヒ」と気味悪く笑って帰っていった。

 井之方を追って外に出たがもう姿は無かった。見上げた頭上には巨大な岩が重圧感を持って突き出していた。誰にも迷惑をかけないようにひっそりと暮らしてきたのに。面倒な連中に見つからないように気を配ってきたのに。アリスの頭上には黒黒とした岩がかろうじて平衡を保ちながら、少しずつアリスの生活を押し潰そうとしていた。

 アリスは店に駆け込むと、井之方が置いていった『幸福ドリンク』のケースを全て掴み上げた。店から飛び出ると力任せに谷に投げ落とした。あんなものない方がいい。アリスは谷に向かって叫んだ。

「来るなら来い。いつでも相手になってやる」

 アリスの叫びはどこまでも谺して谷を駆けていった。頭上の岩が黒さを増した気がした。

          終

おまけのテイスティングノート

『I.W.ハーパー』は人気のバーボンの一つですが、もともとバーボンは厚みのあるボディと力強く男性的な味わいが特徴でした。その特徴を覆しライトなボディとなめらかな口当たりを作り出し、パッケージも都会的で洗練されたイメージを作り上げたことで『I.W.ハーパー』は絶大な人気を得ることができました。いまでもバーボンといえば『I.W.ハーパー』という人は少なくないと思います。あの次元大介が愛飲しているバーボンの一つが『I.W.ハーパー』だそうです。

 今回のお話で『I.W.ハーパー』を扱ったのは次元(ディメンジョン)に関する話を書きたいと思ったのですが、次元とウィスキーがうまくつながらず、次元→次元大介→バーボン→『I.W.ハーパー』というかなり無理のある流れで結びつきました。ただ、じっさい『I.W.ハーパー』が市場に出回り始めると、前述のようにバーボンのイメージを大きく覆す味わいに人々は驚愕したそうです。バーボンとしてはひとつ上の次元へ突き抜けたと言ってもいいのではないでしょうか。

『I.W.ハーパー』の名前は創業者であるアイザック・ウォルフ・バーンハイムからとっていますが、バーンハイムがウィスキー名とあわないので、友人の名前をもらって『ハーパー』としたらしいです。蒸溜所もバーンハイム蒸溜所から建て替えを機にヘブンヒル蒸溜所に変えています。ヘブンヒルとはなんとも幸せそうな名前ですね。アリスはこのお話で自らの運命を断ち切るために一つの決断をします。その決断はヘブンにつながるのか、ヘルにつながるのか。今後の成り行きが楽しみです。





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