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ダブルネーム

 暗がりからすっと現れたのは女性型のアンドロイドで名はジュピターといった。長くしなやかなブロンドヘアーを揺らしながらアリスに歩み寄ると、しばらくの間ジュピターは横たわるアリスを見下ろしていた。何の表情の浮かんでいない顔から何を考えているのか読み取るのは難しい。

 ジュピターは片膝立ちになると、右手をアリスの上を頭から爪先までゆっくりと動かした。

「壊れているところはなさそうね」

 それから少し悪戯な笑みを浮かべた。

「あなたはウィスキー好きだって聞いているわ。ならこれを飲ませてあげる。これであなたがどうなるのか楽しみだわ」

 ジュピターは宙に一本のボトルを表示させた。ラベルには『ザ・マッカラン ダブルカスク12年』と記されている。有名なメーカーのスコッチウィスキーである。そのボトルからショットグラスに一杯注ぐと、何やら別のエッセンスを一雫グラスに垂らした。一瞬だけグラス全体が青白く光ったかと思うと、すぐに光は消えて琥珀色に戻った。

「さあ、これをお飲みなさい。気付けになるわ」

 グラスをアリスの唇にあてがい、少しずつ電子ウィスキーを流し込んでいく。するとアリスが咳き込んだように震えて身を捩った。それからゆっくりと目を開いた。

「あなた誰?」

 まだ機能が全回復していないのか、アリスは重たそうに身を起こしながら聞いた。

「ジュピターよ。私もルカに落とされたの」

「ルカ?」

「地下組織のリーダーよ。夢郎の仲間」

 アリスは頭を抑える。視界が乱れている。まだ思考がはっきりとしない。ルナシティに囚われの身になっているゲン爺を助けに来たが、アーマードポリスに追われて地下に逃げた。そこで地下組織に捕まり、ルカに何かを飲まされたところで記憶が途切れた。

「あなたが飲まされたのは制御ウィルスの一種よ。思考回路が寸断されて記憶に直接アクセスできるようになる。効果が出るまで少し時間がかかるからこうして深い穴に閉じ込めておくのよ。さっきあなたに気付け薬と一緒にワクチンを飲ませたわ。だから制御ウィルスが効果を失って目が覚めたの」

「彼らは何者なの?」

 見張りがいないか確認のためか、ジュピターは上を見上げた。クレーンがはるか頭上で屹立しているだけで誰もいない。

「アフリカの風と名乗っていた。何者かはよく知らないけど、政府アシストコンピュータのアテナスを悪魔の手先と言っていたわ」

「じゃあ、仲良くできるかもしれない」

 ジュピターが眉根を寄せる。

「どういうこと?」

「いえ、なんでもない。それよりここから何とか出られないかしら」

 穴の壁に触れてみるとぼろぼろと崩れる。とても体重をかけられるようには思えない。

「あなた、ジャンプ力には自信がある? 私こう見えて力持ちなの。あなたを押し上げることはできると思うわ」

 二人は上を見上げた。穴の淵までは20メートルほど。アリスのジャンプ力だけでは届かない。ジュピターが力瘤を作ってみせる。

 ジュピターがアリスを投げ上げると同時にジャンプすることでなんとか穴の外に出ることができた。その後ジュピターを引き上げる。夢郎は復活したといってもまだ赤ん坊だ。世話が忙しいのかルカの仲間は見当たらない。アリスが目を覚ますとは露ほども思っていないのだろう。二人は誰にも見つかることなく彼らのアジトから逃げ出すことに成功した。

 アリスはジュピターのワクチンで目を覚ますことができたが、ジュピターはどうやって目覚めたのだろう。少し疑問を感じるところはあったが、先ずは迷宮から抜け出すことが先決だ。ジュピターはもう坑道に向かって走り出していた。

 トンネルを駆け抜ける。ルナシティは100万人が住む地下都市で巨大な坑をいくつか地下トンネルでつないでいるが、分岐するトンネルや勝手に掘られた坑道が無数にあり全てを網羅する地図はない。そんな迷宮じみた暗がりを、ジュピターは勝手知ったる庭のごとく駆け抜けていく。

「あなた道を知っているの?」

「だいたいね」

 ジュピターは曖昧に答えた。

 十分も走ると岩だらけで彫りっぱなしの坑道がコンクリート製の通路に変わった。やがて天井灯が光る通路となり遂に金属製の扉に行き着いた。扉を潜るとそこはルナシティの最下層にある機械室だった。数が限られているせいか、さすがにアーマードポリスもここまでは監視していない。張り巡らされたパイプを潜りながら進み、エレベーターが見えるところで身を潜めた。

「これからどうするつもり?」

「ゲン爺を救いに行くわ」

 ジュピターの問いに答える。

「それなら、何とかできるかもしれない。脱出を手助けしてくれたお礼に手を貸すわ」

 ジュピターはルナシティを占拠しているルナ解放戦線の一員で、抵抗勢力であるアフリカの風を探っている時に捕まってしまったのだそうだ。アリスが独力でゲン爺を救い出そうとした時、リーダーであるダスクが凶弾に倒れた。そのせいでルナ解放戦線とアリスは敵対関係になってしまったが、ジュピターが間に入ればゲン爺を解放する手だてがあるかもしれない。ルナ解放戦線としてはゲン爺一人解放しても何の問題もないはずだ。

 アリスがリスクを計算しているとジュピターが言った。

「リスクはほとんどないわ。私は借りを返したいだけ」

 ややあってアリスは答えた。

「分かった。お願いするわ」

 まずはジュピターが一人でルナ解放戦線のNo.2であるマーレイに会いにいくことになった。そして理由を話してゲン爺を解放してもらい、ここへ連れて戻ってくる。ゲン爺につきまとっているアフリカの風のメンバーはマーレイに抑えてもらえばいい。こうしてジュピターが一人エレベータに乗り込むこととなった。アリスはボイラータンクの影に身を潜めてジュピターの帰りを待った。

 しばらくするとエレベータが戻ってきた。うまくいっただろうか。うまくいけば扉が開いてゲン爺とジュピターが降り立つはずだ。アリスは物陰から扉が開くのを待った。

 エレベータの扉が開くと先ずジュピターが降り立った。その後、ジュビターに続いてエレベーターを降りたのは数台のアーマードポリスだった。ゲン爺はどこにもいない。裏切られたのだ。

「アリス。観念しなさい。もう逃げられないわよ」

 ジュピターの声が響く。

「裏切り者。借りを返したかったんじゃないの?」

「あら、私そんなこと言ったかしら」

 そう言っている間にもエレベータからは銃を抱えたアーマードポリスがぞろぞろと降り立つ。他にもこの階に通じる通路があるのか、彼らの足音が四方八方から詰め寄ってくるのが聞こえた。こうなったら元来た坑道に逃げ込むしかない。アリスは扉に向かって走った。

 だが、坑道の入り口にはすでに2台のアーマードポリスが待ち構えていた。彼らはアリスを見つけると同時に銃を乱射した。話し合いの余地はなさそうだ。

 すかさず横に逃げるアリス。

 背後からアーマードポリスが迫ってくる。アリスはパイプを切断して蒸気を充満させて視界を奪った。その隙にパイプの隙間に潜り込む。図体の大きな彼らはパイプの隙間を抜けることができない。

 だが向こうも自分達だけで追いきれないことは承知していた。頭上を小型の監視ドローンが飛び回り、逐一アリスの居場所を連絡していた。

 このままでは追い詰められるのは時間の問題だ。

「いつまでも逃げ回っていられるとは思わない方がいいわ。マーレイは下級市民の間引きをするって言っていたわよ。年寄りは間違いなく間引き対象ね」

 ジュピターの声が響き渡る。

 間引きだって。冗談じゃない。今すぐゲン爺を助ける必要がある。こうなったら正面突破でエレベータを確保するしかない。ジュピターはアリスがそういった行動にでるだろうことを予測して、エレベーター前をガードしているはずだ。それでもやるしかない。

 エレベーター前のガードはアーマードポリスが3台とジュピター。ジュピターの戦力がわからないが、アーマードポリスだけで十分厄介な状況だ。2台ならまだ勝算があるのだが。ジュピターは人質になるだろうか。アンドロイドだし無理だろう。ある程度被害を受けるを前提に作戦を練ると、アリスは飛び出す機会を窺った。

 するとおかしなことに気がついた。まるでビデオ再生が一瞬停止するかのように、一瞬アーマードポリスの動きが止まることがあるのだ。彼ら自身気づいているのかいないのかというレベルだ。そして観察しているとその一瞬の間は徐々に長くなっていた。どういう理由かわからないがチャンスであることは間違いない。アリスは停止時間が0.1秒に達したら飛び出そうと身構えた。

 アーマードポリスが停止した。

 アリスは正面中心のアーマードポリスに向かって飛び出した。

 同時にエレベーター脇の壁が轟音を響かせて爆発した。

 アリスは咄嗟に反対側に飛んで避けた。

 一体何が起きたのか。崩れた壁の穴から銃を持った男が数名なだれ込んできた。ルカとその一味だった。彼らは三体のアーマードポリスをあっという間に破壊してジュピターに銃を向けた。

 ジュピターが両手を上げる。

「ジュピター。計画開始だ。もういいぞ」

 するとジュピターは上げていた手を下ろしてルカたちの方に歩き出した。ジュピターに向けられていた銃口は全てアリスに向けられた。

「ごめんなさいね。私本当はアフリカの風の一員なのよ。ずっとルナ解放戦線に潜り込んで色々と探っていたという訳」

「作戦開始って何を始めるつもり?」

 ルカが答える。

「地球にコンピューターウィルスをばら撒く。アテナスを停止させるのが目的だ。お前は軌道計算ができるらしいな。撃ち落とされない軌道を計算してもらうぞ」

「断ったら?」

 ルカが分かっているだろうという顔をした。もちろん分かっている。ゲン爺のためには言いなりなるしかない。

「わかったわ」

「さあ、行くぞ。ウィルスでアーマードポリスを止めておけるのはせいぜい1分だ。もうすぐ動き出す」

 ルカの仲間とアリスは爆破で開いた穴から再び地下坑道に入り込んだ。追手が通れないよう入り口は再び爆破で塞がれた。

 隠し部屋に連れてこられたアリスは彼らがただの野蛮なテロリストではないことを知った。コンピューターウィルスをばら撒くと言っていたが、彼らにはそれを作り出せる設備も知識もあるようだ。そして、地球との連絡用パラボラアンテナはルナ解放戦線が破壊してしまったから、ルカたちはウィルスを搭載したミサイルを使うつもりだ。今アリスの目の前にはそのミサイルが横たわっていた。せいぜい4メートルほどの大きさしかないが、電波が届く範囲まで近づければいいのだ。巨大である必要はないし、小さい方が補足されにくい。通信衛星の一つに取り付くことができれば、ウィルスを蔓延させるのは簡単だ。ミサイルは作業台に固定されていが、いつでも発射できるように準備されていた。部屋から地上に向けて斜めのトンネルが掘られてレールが敷かれていた。

「ターゲットの衛星は交通網監視衛星1156577号よ。そこまでの軌道計算をして」

 ジュピターが目的の衛星情報を持ってきた。

「分かった。でもその前にいっぱいやらせて」

「何言ってるの。酔っ払って計算が狂ったらどうするのよ」

「大丈夫。私は元バーテンダーよ。いつだって飲みながら仕事をしてきたし、その方がやる気が出る。どうせならあなたが持ってるウィスキーを頂戴。気付けにぴったりじゃない」

「本当に大丈夫なんでしょうね」

 大丈夫かどうかなんて知らない。ただ飲まなきゃやってられないと思っただけだ。

「大丈夫よ。ガードはかけてるから」

 適当なことを言ってグラスを受け取る。中身は『ザ・マッカラン ダブルカスク12年』。ダブルネームのジュピターから注いでもらうとはなんとも皮肉だ。ワンショットを一息で飲み干すと心地よいゆらめきがコアを取り巻いた。きっと計算値にも心地よさが反映されることだろう。計算後にもういっぱい飲めるよう、ボトルは脇に置いてもらった。

 計算を続けていると坑道の奥の方がにわかに騒がしくなった。何か起きたようで人が慌ただしく行き来をしている。つづいて爆発音が続け様に2度起こり、部屋全体が揺れた。

 ルカが部屋に飛び込んできた。そしてジュピターを見つけると銃を向けた。

「お前が教えたのか」

「何のことよ。知らないわ」

「お前は二重スパイだった。三重スパイであっても不思議じゃない」

「知らない」

 また爆発が起こり部屋が揺れた。爆発音に混じって発砲音が聞こえた。

 ジュピターが胸を押さえていた。

「計画が完了したら、あなたと飲みたかったわ」

 ジュピターがアリスに語りかけながら膝を折った。

 アリスが返事をする前にルカがジュピターの頭を撃ち抜いた。小部屋の外では銃撃戦が展開されていた。

「すぐにミサイルを飛ばす。計算は終わったか」

「まだ半分よ」

「お前のコアを取り出してミサイルに搭載しろ。飛びながら計算するんだ」

「いやよ。冗談じゃない。撃ちたかったら撃てばいい。そのかわり計算はそこで終了よ」

「くそっ! 早くしろ」

 次の瞬間、部屋の扉が打ち砕かれてアーマードポリスがなだれ込んできた。銃撃戦が開始され電磁パルス弾が飛び交う。アリスは作業台の下に隠れながらルカに忍び寄った。そしてルカが気づくより素早くフックをベルトに引っ掛け、反対のフックをミサイルに引っ掛けると発射ボタンを叩いた。

 ミサイルは発射レールを急加速し一気に発射坑から地球に向けて飛び出した。実は軌道計算はもう終わっていた。ただ、余計な重しがついたからその通りには飛ばないはずだ。どこへ向かったのかはアリスにもわからなかった。

 銃撃が止まったので立ち上がると、入り口にアーマードポリスにならんでゲン爺が立っていた。

「ゲン爺。どうして?」

「交渉したんじゃ」

「交渉ってどういうこと?」

「マーレイに教えてやったのさ。本物のウィスキーを造れるやつを知っている。飲みたかったらワシを生かしておいた方がいいぞってな。そうしたら、あいつワシに蒸溜所の所長になれと言うた。ワシは下級市民で囚われの身じゃが、ウィスキー造りで自由に出歩ける身分という特殊な身分なんじゃ」

 ゲン爺はそう言って呵呵と笑った。

「ダブルネームね。そうだ、ちょうど良いウィスキーが手に入ったの。お祝いにいっぱいやりましょう」

 アリスはそう言うと二つのグラスに『ザ・マッカラン ダブルカスク12年』を注いだ。

          終

『ザ・マッカラン ダブルカスク12年』はシングルモルト・スコッチウィスキーの代表とも言える『ザ・マッカラン』の一品です。『ザ・マッカラン』はスコットランドのハイランド地方、ウィスキー造りに最も適していると言われるスペイサイド地区で製造されるシングルモルトで、シェリー樽での熟成により、華やかで上品かつ濃厚な味わいです。『ダブルカスク』とはそんな『ザ・マッカラン』でも、ヨーロピアンシェリーオーク樽とアメリカンシェリーオーク樽という個性の違うシェリー樽で熟成された原酒を用いることで、完璧な調和を目指した手法です。

 さて、今回のお話は前回からの続きで「ダブル」にちなんで考えました。ルナシティを支配しようとするテロ組織と、さらに別のテロ組織。それらのどちらからも「ダブル」で追われる立場のアリス。どちらの言うことを聞いても市民の幸せにはつながりません。そしてテロ組織からアリスを救い出したジュピターは「ダブルネーム」。つまり二重スパイでした。さらにデュアルブートで二つの「ダブル」の意識を持っています。そんなジュピターが気付けに使ったウィスキーは「ダブルカスク」の『ザ・マッカラン ダブルカスク12年』です。

 組織のリーダールカを葬ったアリスですが、夢郎とその組織はまだ残っています。ルナ解放戦線も幅をきかせています。これからルナシティで本当の戦いが始まるのです。


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