マネキン|掌編小説
そこに鋭利な闇があるからこそ光は安心して輝くことができるのだろう。陰翳礼讃に至る彼の左顔は自然光がひらひらと肌を滑り落ち、そして右顔は濡れた翳にそっと包まれて沈黙している。私はその明暗を辿るように彼の眉、眼、鼻、頬を透明な視線でなぞった後に少し高揚している唇を観た。ひとつだったはずのその唇は上下に別れて私の名を呼んでいる。
「ナナ。」
口角の上がる唇から出る音は何処までもやわらかく、私の心を掴んで離さない。
「どうしたの?」
彼の泡立つ視線に耐えきれずに私の口から急いだ言葉が零れ落ちた。木漏れ日は闇に希釈されて私を仄かに照らしながら小刻みに揺れている。私は自然の秩序に従い、蛍光灯を点けることなくその明暗を堪能しながら彼が過去に触れた私の手、髪、涙、心を辿ると不確かだったその輪郭は確かなものへと形を変化させた。すると彼は、慌てる様子もなく私の言葉を聞き取りゆっくりと唇を開いた。
「ズット イッショ。」
血が通っていない彼の左頬に手を当てると、太陽に照らされて少し熱っぽい。私は彼から手を離してテーブルにある闇に沈めた。
「これからも一緒だね。」
私の言葉は彼を通り越して壁へ反射して部屋の隅へ転がると静かに消滅した。
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