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こんにちは、たまご|短編小説

ガラス戸に映った自分の顔を見た。額、眉毛、目、鼻、頬、口。なんの変哲もない毎日見慣れた顔。けれどそこには映し出すことのできない、赤い怒りがすべてを塗り潰そうとしていた。私はそっとそのガラス戸から視線を逸らして、坂を下り道路へ出た。

「ああ、あの猫ね。それならあげるわ。」

家から徒歩5分くらいのお宅の猫をうちで保護していることを伝えに行ったら、煙草を片手に持った不機嫌そうなおばさんが出てきて、そう言われた。思い返すだけでも辛くて道の途中で、地団駄踏んだ。メロス以外に地団駄踏む人を知らないけれど、私はへその辺りから轟々と音を立てて燃える怒りを内側に止めることができずに外側へ放出したら、それが地団駄になった。

ダンダンダンッ!

アスファルトに反射する音は鈍く響いた。悔しかった。猫と私を侮辱されたように感じた。

「ああ、あの猫ね。それならあげるわ。」

脳内でリプレイされる不機嫌な声音、卑しい視線、赤い唇から漏れる紫煙、黄ばんだ歯、赤い爪、細い躰、派手な花柄のワンピース。おばさんを構成する要素すべてが負の象徴であるように映ってしまい、それは容易に私の怒りを煽る。この世界は理不尽なことだらけだ。どんなにきれいに装っていても、表面をぺろんとめくれば中身は汚れていて、醜くて、真っ黒なものがたくさんうごめいている。きれいごとばかりじゃない世の中は、中学校の制服を着る頃にすでにわかっていた。小学校で教わったいのちの平等性なんて、絵空事だと。ぐうっとくぐもった苦味が口の中に広がるような気がするから私は唾を飲み込むと、怒りと悲しみが腹の中で「混ぜるな危険」のシグナルを発した。私は自分を落ち着かせるために長い髪の毛を触った。しゃらしゃらと風に揺れる髪の毛。その隙間から光があふれる川面とやわらかい風、そして、消えることのない研ぎ澄まされた怒りと悲しみ。相反する世界に挟まれて、足がすくむ。そして、ひとかたまりの世界で忘れていた時間を思い出した。

猫はうちの猫になったんや。

これからはいっぱい撫でてあげよう、いっぱい遊ぼう、いっぱいそばにいよう、いっぱい、いっぱい、いっぱい…

そう思うと、止まった足は自然に家へと向かった。怒りと悲しみで絡まった糸をやさしく解くように足取りは軽くなる。家へ到着すると、玄関のマットの上には猫がちょこんと座って「ニャア。」と鳴いた。その姿を、声を、感じると熱い塊が目のふちに溢れた。そして、それは自然と重力に従い落下するからサッと手の甲で拭き取った。私は必死でそれを止めると、こめかみに熱の塊が右往左往しているような感覚になった。すると、猫は私の足に身体を擦り付けてまた「ニャア。」と鳴いた。私はそっと手を差し出して猫をなでた。やさしくやさしくなでた。猫は喉をゴロゴロと鳴らして嬉しそうに目を細めている。零れていたそれが完全に止まったことを確認すると、靴を脱いで居間へ向かった。

「ニャアオン。」

私の足元で猫が鳴きながら、おかんを見ている。おかんは洗濯物を畳んでいた。

「あ、猫ちゃんのおうちの人はどうやった?」

おかんはトレーナーを畳ながら訊くから私は

「"ああ、あの猫ね。それならあげるわ。"やってさ。いのちをなんやと思ってんねん。あんな大人、サイアクや。」

私はタバコを吸うおばさんの真似をして言うとおかんは

「そうか──。」

おかんは悲しそうな表情で、猫を見た。そして

「それなら今日からこの子はうちの猫やね。」

と、おかんは靴下を丸めながら和かな表情を作り、それを畳んだ洗濯物の一番上に乗せてぽんぽんと叩いたあとに、私を優しく見た。

「ちいちゃん、ほな、その子の名前を考えなね。」

おかんはそう言うと、横にいた猫をやわからそうな手でやさしくなでた。猫は嬉しそうにおかんに体を擦り付けてしっぽをピンと立てている。その姿は家族の一員になったことを知っているような気がした。私は猫を見た。白い毛並み、丸い体、甘い声音。それはぽとりと産み落とされたばかりの、たまごのようだった。

「この子の名前は、たまご。」

私がそう言うと、おかんは微笑みながら

「たまご。いい名前やね。」

そう言うと、たまごは大きくあくびをしたあとに

「ニャア。」

と、鳴いた。その声はひと匙の砂糖のように甘くて。たまごの小さな体に閉じ込められているものは、光なのだ。それはひそやかであかるくて、私をそっと照らしてくれる。

「こんにちは、たまご。」

私から零れる言葉はどこまでもどこまでも深く、それはまるで深海をのぞきこむような気がした。すると、たまごは私の手の甲に頭をぶつける仕草をした。

「たまご、これからもよろしくね。」

私は小さくつぶやくと、たまごは「ニャア。」と返事をして目を細めた。それはまるでにこりと微笑んでいるように見えた。







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