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名前という記号に愛を探してみる

生きるのに疲れたとき、カーナビのように次の行き先をナビゲートしてくれる機能があればいいなと思う。ポンッと軽快な通知音のあとに「100メートル先、左折するといいことがありますよ。」と、やさしくナビゲートしてくれたなら、どれだけ生きやすいだろうかと、憂いの上に笑顔を貼り付けて、いつもそんなことを思っている。苦難を乗り越えてこそ人生だ、みたいなスローガンは表面に青錆が浮くほど古いし、正直しんどい。

「なんとなく、しんどいなあ。」

そうマスクの中でつぶやくと、母は

「え?風邪?ちょっと、マスクして。うつるやん。」

と、的外れなことを言うから

「そういうことじゃなくて…いや、もういいわ。」

と、言い終えると母は

「変な子。」

と、そっぽを向いて庭へ出た。私は小さな声で「変な子ってえ。嫌味なやっちゃな。」とつぶやいて気分転換に携帯でぴこぴこと指を動かながら小説を書き始める。そうすると、頭の中のカーソルが点滅する。

名前、主人公の名前。

名前はその人にとって非常に大切なものだと思うから丁寧に考える。「名前」という記号は「私」を唯一無二の存在としてこの世界に繋ぎ止めてくれるものだから。「私」の名前を呼んでくれる他者がいるから「私」に気づくことができる。自己承認。他者が「私」を呼ぶ声は、鼓膜を震わせて体と心に「私」を強く刻み込む。すると、ふと、ゼロ姉ちゃんのnoteを思い出した。


愛してるって名前をつけたくなることなんだな、きっと。



このnote、とてもとても好きで、今でも心に残っている。「名前」のもつ底知れないパワーとやわらかさを感じる言葉が心に沁みる。私たちは、どこにでもいる存在、と、どこにもいない存在、との間でいつも逡巡している。けれど、「名前」を呼ばれたり言ったりすることで、逡巡から救われることがある。それはまるで「私はここにいます。」と精一杯の自己承認のような。

「トマト!ねえ!トマト!」

母が私の名前を大きな声で呼んだ。ふと、背筋がピンと伸びて背骨から「私」を認識する。母はいつも私のことを「あんた」とか「君」とか「この子」と呼ぶから名前で呼ばれることが久しぶりで妙にくすぐったい気分になった。窓ガラスを開けると母が

「トマト、あのー、玄関に手ぬぐい忘れたから、ごめんやけど取って来て。」

母の口から飛び出す私の名前。私は玄関へ行き、手ぬぐいを持って母へ手渡した。窓を閉めると床に落ちている余韻が残響する。それを拾い上げて名前という記号に愛を探してみると不確定要素に溺れそうになり、くらくらした。そして、幼い頃は自分の名前がきらいだったことを思い出した。ありふれた名前はありふれた日常を生きるのにぴったり過ぎて逆に居心地が悪くて、ぎすぎすした。けれど、最近、名前が肌馴染みがよくなってきた。それは名前が「私」を形作るものの芯になっているのかも知れないと気付いたからだろう。名前は私のアイデンティティ。ぽつんとそんなことを思う。



正直、生きるのことに疲れるし、苦難を乗り越えてこその人生だ、みたいなスローガンは表面に青錆が浮くほど古いし、正直しんどい。「しんどいわあ。」と言いながら匿名の海を泳いでいる私は久しぶりに名前を呼ばれたことで、覚醒した気がした。そこに私がいる、という存在証明。それが名前のもつパワーなのかも知れない。

そんなことを考えまくったから、小説の主人公の名前を決めかねて、この日記を書いている私は、やっぱり生きるのが下手くそです。










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