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点々|第一話

遠山さんは足を組み直すとき、「ガスト」と言う。

なんでガストって言うのか不思議だけど、たぶん、「よいしょ」とか「さてと」と同じ掛け声の類だろうし、深い意味はないんだろうなと思うから理由を聞いたことはない。4回目の「ガスト」までは数えていたけど、英語の長文問題に集中しているうちに何回目か忘れてしまった。

「解けた?解きたい?」

「解きたいっちゃ解きたいです」

遠山さんはいつも、問題を解けたか解けなかったかではなく、解けたか解きたいかで聞いてくる。同じ塾の生徒の中には、その聞き方が煽られているようで嫌だって思う人もいるらしいけど、そんなことない気がする。解けたか解けなかったか聞かれて、「解けませんでした」と答えるときの申し訳なさとか惨めさを知っている人じゃないと、あの聞き方はできないんじゃないだろうかって思うから。

塾の扉が開いて、次の授業を受ける生徒たちがどたどたと入ってくる。中学の校庭にある、タイヤを半分に切って地面に埋め込んだ遊具の匂いがして思わず振り返ると、中学のダサい青緑のジャージが見えて、自分の嗅覚に驚いた。

また「ガスト」と言っているのが隣から聞こえる。

遠山さんに初めて会ったときに、開口一番「先生って呼ばないでいいから」と言われたことを覚えている。何の相談もなしに塾に通うことを親に決められた高校1年の夏。めちゃくちゃ嫌な気持ちでこの小さな塾に訪れた僕に、遠山さんは「一緒に頑張ろうな」とか「苦手を一つひとつ潰していこう」とか無責任な励ましの言葉ではなく、「先生って呼ばないでいいから、俺ただの大学生だし」と、そう言ってくれたのだ。それからずっと、遠山さんに英語と物理を教わっている。火曜と木曜、2時間ずつ。

遠山さんはこの塾で理数科目と英語を担当しているから、きっと理系を専攻しているんだろうなと思うけど、それ以外の情報は何もない。何歳なのか、何年生なのか、地元はどこなのか、趣味はなんなのか。いつだか、塾の他の生徒が「大学をずっと休学していて今は28歳らしい」と教えてくれたけど、遠山さんは「20代後半になったら、もうアラサーっていわれるんだって、嫌だな」と嘆いていたことがあったから、少なくとも25歳以下だろうと踏んでいる。

「解けました。問4がちょっと難しすぎた気がする……」

英語の長文問題を解き終わると、持久走を終えたときと同じくらいの開放感と達成感が襲ってくるものだ。思わず伸びをしてしまい、古い椅子がキキキと音を立てる。遠山さんは高速で採点をして、「全問正解」と不恰好な花丸をつけてくれた。

「そういえば先週末、貝谷君がこの前話してた駅前のカラオケ行ったよ、たしかに音響いいよね。バンドやってる友達たちも音がいいって喜んでた」

「あ、行ったんですね。やっぱり最新の設備ですよ」

「でも、カラオケ行くの久しぶりすぎて曲の入れ方全然わかんなかった。友達が選んだ歌も8割知らなくて焦ったし」

「遠山さんは何歌ったんですか?」

「手嶌葵のテルーの唄」

「期待を裏切らない選曲で安心しました」

「『虫の囁く草原を ともに道行く人だけど 絶えて物言うこともなく』って歌詞、一生忘れないと思うんだよね」

「『絶えて物言うこともなく』ってどういう意味ですか?」

「古文勉強した方がいいよ、あと萩原朔太郎の詩も」

「急に勉強の話ですか……」

ちらっと遠山さんを見ると、笑ってるのか真面目に話してるのか掴めない表情をしながら、地理の参考書をパラパラとめくっている(地理の授業なんてしてないのに!)。

「ていうか、バンドの友達って」と言いかけて、口をつぐむ。前までは何も考えずに話したいことを話して、聞きたいことを聞いていたけど、友達に関する話題は、深掘りしない方がいい。

遠山さんが言う「大学の友達」の話は、たぶん、嘘だからだ。確証はないけど。



「あんなに転がっていたセミの死体って、どこにいくんだろうね」

という話をしていたから、あれはたしか、去年の秋頃だった気がする。その前の週、模試で出題された三角関数の問題がどうしても解けなかったと泣きついたところ、遠山さんは家で解いてきてくれた。「解いた紙を無くしそうだったから写真撮ってきた」と言ってスマホの画面を見せてくれたので、ちゃんと見ようと写真を拡大しようとしたところ、手が滑って写真一覧を見てしまったのだ。

そこにはどこかの信号機の写真がズラッと並んでいた。

昼間に撮ったのであろうものも、夜撮ったのであろうものも、とにかく同じ角度から撮った信号機の写真が何枚も保存してあって、少し、ほんの少しゾッとしてしまったのを覚えている。

遠山さんはそれに気づかず、国語便覧に載っている百人一首のページを食い入るように見ていたから、好奇心からか僕は写真フォルダを遡ってしまった。スクロールしながら、思わずひょえーと声が出そうになった。

2000枚ほど保存された写真フォルダは、全て信号機の写真だったのだ。

一番最新の写真は昨日の22:16に撮られていて、真っ赤な光が暗闇の中でぼうっと佇んでいるものだった。少しブレていて、その赤い光は曖昧な軌跡を描いていた。

写真を見ながら、授業が始まる前に遠山さんが言っていたことを思い出した。

「昨日19時くらいから友達の家でずっと宅飲みしてて、寝ないで大学行ったから昼間頭が働かなかったんだよね。でも夕方から急に覚醒してきたから何でもできる。東大の過去問もスラスラ解ける」

遠山さん、嘘ついてたんだなと気がついたのはそのときだった。友達と宅飲みしていたという話と、夜に撮った信号機の写真。

思わず、他の写真の日付も確認してしまう。

先週末は友達と熱海に旅行に行ったと嬉しそうに話していたのに、その日付の信号機の写真もちゃんとある。

写真に映った信号機の赤い光がなぜか血のように見えてきて、慌てて三角関数の回答を書き写してから遠山さんにスマホを返した。

「月見ればちぢにものこそ悲しけれ、わが身ひとつの秋にはあらねど」

重い国語便覧を、遠山さんはやさしく閉じる。
窓から入ってきた風から醤油の焼ける匂いがして、お腹が鳴りそうになる。

「え?」

「『別に俺だけに秋が訪れたわけじゃないのに、月見てるとなんでか無性に悲しい』って」

「悲しくてやりきれない、ですか」

「ザ・フォーク・クルセダーズね」

「題名も歌詞も暗いのに、曲調はちょっと楽天的っぽいのがいいですよね」

「題名も歌詞も、暗くないじゃんってそのうち気づくよ」

「そういうもんなのか」

「いやごめん、俺がそうだっただけ」

「遠山さんも高校生の頃があったんですね」

「そりゃあったよ」

なんで遠山さんは、嘘をついているんだろう。

なんで遠山さんは、嘘の友達のことばかり話すんだろう。

でも、なんで嘘ついてるんですか、と聞くのはやめておこうと思った。遠山さんを傷つけてしまうのではないかと気が引けたからとか、キレられるのではないかと怖かったからとかではなく、それを聞くのは、すごく嫌な感じがしたからだ。嫌な感じ。真相を知りたいという純粋な気持ちではなく、遠山さんを懲らしめたらどうなるんだろうという気持ちの方が強くて、そんな動機はとても嫌な感じだと思ったのだ。

あれから1年経ったけど、未だに遠山さんが嘘をついている理由は分からないし、尋ねたこともない。気になるかと問われたらそりゃあそうだけど、僕を貶めるためとか、自分が気持ちよくなるためとかって理由で嘘をついているような気はしないから、このままでいいと思う。

「長文問題はほとんど丸だったけど、文法問題でひっかかってるな。現在完了らへんが特に」

「現在完了と過去完了の違いがたまにわかんなくなるんですよね」

「なるよね」

頷きながら、遠山さんはノートに一本の線を書く。線を書いた後、一瞬だけ手が止まった。

「人生を一本の線分として捉えるのって、なんでなんだろうね。この線分書くたびに嫌な気持ちになる」

嫌な気持ちになる。

遠山さんがはっきり「嫌だ」と言うのを初めて聞いた気がして、思わず遠山さんの表情を確かめると、犬が威嚇するように鼻に皺を寄せていて、想像以上に嫌そうで笑そうになってしまった。

「気を取り直して、ここを今、左を過去、右を未来とするとーー」

塾の帰り道、電車を降りてからNikon Fを取り出す。数えるくらいしか会ったことがなかった父方の祖父が、中学1年生の春にくれたカメラだ。

「じいちゃんが昔使ってたやつだからお古だけど。ごめんな」

ごめんな、と繰り返す祖父の目は笑ってるときと同じで、開いているのか閉じているのかよく分からなかった。

写真は好きだ。

どこの何を撮ったか分からない写真であっても、それが存在した事実は揺らがないからだ。
ふらふらと歩きながら、立ち止まってはシャッターを押す。日が落ちてきたから涼しくて、こういう時間がいちばん好きだ。

イヤホンからリーガルリリーの『GOLD TRAIN』が聞こえてきた。

私の持っている目に収まった空や
地平線や風や星々も手には入らなかったけど
自分と繋がっていることを知るために
君は絵を描くんだね

だから僕は写真を撮るのだろうか。
カメラを構える手に汗が滲んで、滑りそうになる。

駅に向かう電車が、すごい勢いで遠ざかっていく。その車体に夕日が当たっていて、思わずカメラを向けた。

家に帰ると、自分の部屋にいく前に「模試の判定どうだった?」と母に聞かれて天を仰ぎそうになる。

「模試の結果は来週だから、まだ出てないよ」

「そうだったんだ。あ、そういえばA大は英語の配点高いらしいから、今の時期から英語に力を入れておいた方がいいって。でも、B大も悠也には合ってると思うんだよね、悩ましい」

「英語は今日の塾でも苦手なところ教えてもらったから大丈夫だよ。B大の過去問は今度調べてみる」

答えながら、カメラのレンズの蓋をつけたり外したりする。いい大学に行くことって、本当に正解なんだろうか。

「今頑張ればこの先楽だから、頑張ろうね」

ね、と繰り返す母が、自分の見栄とかプライドのために僕をいい大学に行かせようとしているわけじゃないことはわかってる。息子を思ってのことだなんて、百も承知だ。それでも悶々としてしまう。今頑張ったから未来が楽になったとして、それでいいのだろうか。

「人生を一本の線分として捉えるのって、なんでなんだろうね。この線分書くたびに嫌な気持ちになる」


遠山さんが言っていたことを思い出す。


遠山さん、嫌な気持ちになるっていうの、僕もちょっとわかる気がします。



この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年6月号に寄稿されています。今月は連載・連作2作品と、ゲスト作家による短編2作品の小説5作品を中心に、毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品は、以下のページからごらんください。


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