洗顔

霧雨53号
テーマ:イニシエーション/通過儀礼
作者:小桜明
分類:自由作品

 マヤは知っていた。夜布団に入った後、母親が頭を撫でてくれていることを。母親は昼間こそ冷たく厳しいが、それはただ不器用なだけで本当は彼女のことをとても愛していることを。そんな優しい手の感触が心地よくて、彼女はいつの間にか眠ってしまうのだ。
 
 
 マヤはその日も朝から水を汲みに行った。砂漠の村に住む彼女たちはその日の水を得るために近くのオアシスまで足を運ばねばならないのだ。
 マヤには父親がいない。彼女が生まれて二年もしない内に病気で死んだそうだ。男手のいない家は村の中で地位が低くなる、彼女の家はオアシスから遠い位置に移されてしまった。
 母は賃金を得るために家で内職をしている。その為父親のいないマヤは小さいながらも大きなバケツを持って何度も家とオアシスを往復する必要があるのだ。
 しかしその日は少し違った。オアシスから彼女の家の間には民家が一つもない場所があるのだが、朝一でオアシスから水を汲んで帰る途中、その場所に差し掛かったところで何か大きく黒いものが落ちているのを見つけた。
 幼年故の好奇心で近づくと、それは倒れた見知らぬ男であった。男は黒いボサボサした服を着ており、傍らには彼の物であろう荷物と水筒が落ちていた。どうやら旅人のようだ。
 もっと近づくと、どうやらまだ息はあるようだった。死んでいたのなら埋葬の後荷物を拝借しようと思っていたが、生きているのならば話は別だ。マヤは男に話しかける。
 男は食料を所望した。持ち込んだ食べ物を食べ切り、飢餓で動けなくなっていたらしい。
 マヤは心優しい少女だ。父親が居なくても、この厳しい砂漠の中でも、彼女の性根は曲がっていない。彼女は自らが朝食用に持っているパンの欠片を男に分けてやることにした。
 男が水を飲みながらパンを貪るように食べているのを見てから家に水を持ち帰った。家の水がめに水を汲み、未だパンを食べている男を横目にオアシスへ向かう。
 再度水を汲んで戻ってくると、男は少しばかり元気になり、マヤに話しかけてきた。男は改めてマヤに感謝の言葉を伝えた後、何故オアシスを往復しているのかと尋ねてきた。マヤは生活のための水を汲みに行っているのだと正直に答える。
 男はそのことに大変驚いた様子だった。そんな生活をしているのに自分に食料を分けてくれたのか、と言葉を零し、感謝と謝罪で頭を下げる。マヤは当然のことをしただけだから気にするなと顔を上げさせるが、男はそうはいかないと言い、自らの荷物を漁り始める。
「本当は誰にも言っちゃいけないんだけど、実は僕は魔法使いでね」
 そんな言葉から男の話は始まった。
 男はとある島国出身の魔法使いを自称した。今は世界をより深く知るために旅をしているそうだ。
 大人ならばそんな話は唾棄するだろう。しかし、マヤは村の外の世界をまだ知らない世間知らずの子供だ。外にはそういう人もいるのか、と目をキラキラさせて聞く。
 彼の魔法には制約がある、己が課した制約に基づいて行動することで魔法の力を得ているのだと男は言う。制約は様々だが、中でも大事にしているのは、他人の自分に対する行動に相応の返礼をする、という制約なのだそう。
「君は僕に生命線を分けて、命を救ってくれた。ならば僕も同じものを返さねばならない」
 男はそう言って杖を取り出した。魔法使いにとっての生命線、つまり、彼の使える魔法を一つ、マヤにくれるのだと言う。
 男はマヤに、今一番困ることは何かと問うた。マヤは少し考えると、やはり水を運ぶのが一番大変だと答える。それだけで一日の大半が終わってしまうと。
 男は眉を顰めた。
 それが余りに現実的な子供らしくもない答えであったからだ。当然のことながら水の魔法は砂漠を渡らんとする男にとっての文字通りの生命線でもある。即ち男にはマヤが年齢の割に言葉を言葉通りに受け取るのが上手すぎる様に見えたのだ。
 男の常識では子供は夢見がちなもので、今一番困ることという問いかけにも恋だの愛だのという生きていく上で必ずしも不可欠ではないものを答えるだろうと考えていた。それ故にマヤの答えは余りにも現実主義的で即物的なものであり、男にはマヤが子供ではなく打算的な何か別のものに思えてしまったのだ。
 しかし、マヤの様子を見ればそれが見当違いであることは自明である。そも場が異なれば俗識も異なる。男の国とは違い、この地域においては生活に不可欠でないものは本当に必要のないものなのだ。
 男は自分の中でそう結論付けてマヤに応えた。
「いいだろう。君の願い、僕が叶えてみせよう」
 男はマヤを近くに来るように言う。マヤは、特に警戒もせずに男に近づき、バケツを下して地面に座った。
 男はマヤの前に立ち、杖を彼女の額に向け、聞き覚えがありそうで何か違う不思議な言語でブツブツと呪文を唱え始めた。呪文に応答するように、男の杖の先が美しい黄緑色に輝く。同時にこのただただ暑いだけの砂漠では到底感じることの無い温かな心地よい風を感じた。それはマヤの知らぬものであった。そしてこの世界の殆ど誰も知らぬ感覚でもあった。なにせ男は無知な子供を惑わす詐欺師でも魔術を謳う手品師でもなく、本物の魔法使いであったのだから。
 光が揺れる。ゆらゆらと彷徨う黄緑色をマヤは目で追う。右へ左へ、そして額をコツンと叩いた。その一瞬ふわりと光がマヤの体を包んだ。
 男はそこまでして、これで終わりだと言った。これで君も魔法が使えると。
 マヤは首を傾げた。何かが変わったような気はしないからだ。水が出せる様にでもなったのかと手を伸ばしてみたりするも特に何かが起こる様子もない。
 そんなマヤを見て男は笑う。そして、男は地面からこぶし大の砂岩を拾ってマヤに渡した。そしてそれに唇を付けるように言った。
 マヤは言われるままに砂岩に唇を落とした。すると、砂岩はどろりと溶けて、透明な水となって指の間をすり抜けた。ビタビタビタと音を立てて地面に染みを作る。マヤは驚いて男の顔を見た。
 男はそんなマヤを見て再度笑い、魔法の説明を始めた。
 その魔法は、喉が渇いている時に口を付けた物体を水に変身させるという魔法だと男は言う。物の大きさに多少の制限はあるものの人が一人で持てるサイズのものならば大抵は水に変えることができるのだ。ただし、制約ももちろんあり、『他人にこの魔法を知られてはならない』というものだ。たとえ家族で会ったとしても、この魔法のことを知られてしまったら二度と使えなくなってしまうのだという。
 また、その他の注意点として、食事前に水分を取ることと寝返りをあまりうたないようにすることを挙げた。食事時に魔法を使ってしまったら食器を駄目にしてしまうし、水分の取れない睡眠時に寝具が水になってしまったら悲惨な目覚めになるからだ。
 そのようなことを話して、男は杖を荷物にしまった。そろそろ行かねばならぬのだそう。
 マヤは魔法について男に感謝を述べたが、感謝するのは自分の方だと男は言い、君のこれからの人生に幸があることを願っているという言葉を最後に、マヤの前から立ち去って行った。
 その後水を運んでいる途中だということを思い出したマヤは慌てて家に帰るが、内職をしている母親に帰ってくるのが遅いと叱られてしまった。
 その日の水運びはとても楽になった。マヤは基本的にずっと若干の水分不足のため、オアシスに行かずとも家の周りで大きめの岩を探してキスをすればそれだけで水を集められるのだ。
 寧ろ母親や近所の人に怪しまれないためにどこかで時間を必要が生まれたほどだ。それだけこの魔法は便利なものだった。
 日が落ちて、夕食の時間になった。暗いランプを真ん中にマヤと母親が食卓を挟む。テレビなどがないここでは、互いの話が一番の娯楽だ。二人で今日出会った出来事などを話し、夜は更けていく。マヤは男の話もしたが、魔法のことは知られてはいけないのでそれは省いて倒れていた男を介抱したというようなことだけを話した。母親はどこか複雑そうな顔をしていたが、最後には優しいことをしたと褒めてくれた。マヤはそれがとても嬉しかった。
 
 
 夜も更けて、就寝の時間になる。ランプの灯を消すと、月明かりだけが唯一の光源となり、部屋を優しく照らした。マヤの母は、いつものようにマヤの布団の横からマヤの頭を撫でる。
 今日はマヤを不要に叱ってしまった。水が足りずに喉が渇いてイライラしていたのもあるが、それにしても強く言い過ぎてしまった。その証拠に、その後マヤは少しハイペースに水を運んできた。
 しかも聞けば行き倒れの男を介抱していて遅くなったのだと言う。貴重な食糧を与えてまでだ。こんな優しい我が子を強く叱ってしまったことを母親は後悔していた。
 母親としては、自分が苦労するのはいいが、娘に無理をさせてはならないと思っている。しかしやはり自分が苦労していることもあり、娘には辛く当たってしまう。今日もそうして無理をさせてしまった。
 マヤを見ると、いつの間にか眠っていたようだ。いつものように、少し乾いた寝息を立てている。マヤは最後の家族である。絶対に自分が守ればならない。これ以上の無理をさせてはならない。この子にはいずれ幸せになってもらわなければならないのだ。
 
 その為にも、明日からはもう少しだけ優しくなろうと心に決めて、愛しい我が子に口づけを落とした。

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