沖縄へ 歴史の記憶と万国津梁
上空から見た沖縄 膨張する都市
飛行機が航路を下げながら旋回して那覇空港に向かう途中、窓から外を見下ろすと、島南部の面積の大部分を白い建物が覆い、今にも陸から海へはみ出しそうな勢いに見える。
1972年に本土復帰後、沖縄県の人口は約100万人から、2020年には146万7千人へと増加した。
国勢調査によると5年前に比べ、人口は3万4千人増加し、東京都に次ぐ高い人口増加率(2.4%)を記録している。
今後、県は、2100年に人口200万人までの増加を見込んでいるようだ。
沖縄経済も復帰後、2019年までには、約10倍の4兆5千億円規模に達した。
国内外から年間1千万人の観光客を引き寄せ、観光収入も7千億円を超えた。
沖縄本島中部の名護市周辺では、ハレクラニやリッツなどの5つ星ホテルが進出し、また、近くには、沖縄科学技術大学院大学(OIST)が10年前に設立され、世界中からトップレベルの研究者を集めているようだ。
そして、勢いのある沖縄に、日本各地からの移住者が後を絶たないのは周知のとおりだ。
沖縄を中心にして、飛行機で4時間以内に到達する地点を円に描くと、円の中に、日本列島、中国、台湾、香港、東南アジアなどを含む人口約20億人の経済圏をカバーできる。
沖縄の経済界はその地の利を生かして、貿易や物流、観光産業での発展を考えているようだ。
那覇空港を出て、市街地へ繋がるモノレールに乗り、ホテルに近い県庁前駅へと向かった。モノレールの座席からの目線は高く、左右の視界に広がる大きなビル群に少々驚いた。
那覇市は亜熱帯の観光都市というよりは、人口32万人の商業都市であることに気づかされた。本土からも多数の大手企業の支店、外食や小売の店舗が進出している。
大城立裕さんのこと
沖縄への最初の訪問は学生時代の1978年、ちょうど沖縄の道路が右側から左側通行へと変わった後のことだった。沖縄本島の南部から近い久高島を訪れた私は、偶然、後に沖縄在住の芥川賞作家と知る大城立裕さんと小さな民宿で一緒だった。夕飯の時に話しかけられ、私が東京から沖縄のことを勉強しに来たというと、目を細めて喜んでくれた。その時は、相手が誰だか分からなかったが、しばらくして大城さんの顔が新聞の文芸誌の広告に大きく出て、あの時の人だと気づきびっくりしたことを覚えている。
その後、興味をもって大城さんの作品を読んだ。1967年の芥川賞受賞作になった『カクテル・パーティー』は、米軍占領下の沖縄の現実を日本人、アメリカ人、中国人が交わすパーティーでの会話を通して描いた作品だ。作家の柔和な風貌とは違い、小説が鋭く沖縄の不条理を書いていることが印象的だった。その後も、幾つかの作品を読み、沖縄の歴史や文化を伝える作家の使命感のようなものを感じていた。以来、大城さんはずっと気になる作家として自分の中で存在していたが、昨年の10月、95歳で他界されたことを報道で知った。
今回、大城立裕氏の記念館があれば訪れたいと思い、色々と調べてみたがそうした記念館はないという。そのかわり、分かったのは、彼の直筆原稿や資料などが「大城立裕文庫」として沖縄県立図書館に保管されていること、そして、ちょうど、沖縄のブラジル移民を主題にした作家の小説『ノロエステ鉄道』の企画展示が同図書館で行われているという情報だった。
その情報を頼りに、数年前に新しく移転したという県立図書館を訪れた。ちなみに、図書館の建築や内装、家具やレイアウトは素晴らしく、羨ましくなるほどの環境だった。館内で、ゆっくりと移民の展示と作家の業績を辿ることができた。
企画展示は、海外に住む約42万人の海外同胞と繋がる「世界ウチナーンチュの日」(10月30日)に合わせて開催されたものだ。沖縄では1900年のハワイ行きを皮切りに移民が始まり、アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、メキシコなどへ、1938年までに当時の人口の12%、約7万人が海外に出たようだ。図書館の展示コーナーでは、パネルによる説明があり、訪れた人の関心を呼んでいた。そして、大城立裕氏を紹介する年表や全集を含む数多くの出版物も見ることができた。
レールの向こう
大城立裕氏は1925年生まれ。晩年も旺盛な創作意欲を失わず『レールの向こう』という短編集を90歳の時に出し、川端康成賞を受賞している。
この本の中に、市街地に伸びるモノレールを遠景にしながら、市立病院に入院する老夫婦の話や新都心を舞台にした話が出てくる。本の「あとがき」に作家は、自分としては珍しく家族の話を私小説風に書いたと綴られている。
また、短編集の中の「天女の幽霊」という作品では、再開発された新都心で幽霊が出るという話をユタという巫女を軸に登場人物に語らせている。あたかも街で幽霊の話を聞いたかのような臨場感で描いている。
新都心はモノレールの「おもろまち」駅から降りたところにあり、以前は米軍の住宅があった場所だと作品で知った。駅前には、巨大なDuty Freeショップやショッピングモールがあり、少し歩くと沖縄県立博物館・美術館に行くことができる。今回、何度か行き来した新都心が小説の舞台だったことを後で知り、現代的な建物が並ぶ街の風景からは思いもつかない物語を紡ぎ出す作家の懐の深さを感じた。
作家は自分のことを「沖縄の私小説作家」と称している。それほど大城立裕氏の作品の幅は広く、業績は大きい。沖縄の戦争や占領、本土復帰、基地問題を題材にして書いた作家は同時に、沖縄の歴史や文化、民俗、芸能を描き出し、多くの資料を保存することにも注力した。ちなみに、大城氏は沖縄県立博物館の館長も歴任していた。
沖縄では「ニライカナイ」という海の彼方に神々が住む場所があるという信仰がある。島は美しい海とサンゴ礁に囲まれ、「あかばなー」(ハイビスカス)が咲き誇り、今も生活の中で「ユタを買う」(巫女に相談する)ことを習慣とする人々の息遣いがある。
短編集を読みながら、大城氏は沖縄の人々が普段交わす何気ない会話も文学作品として昇華させ、この時代のすべてを記録に残しておきたいというどん欲さを感じた。沖縄の私小説作家たる由縁を垣間見ることができた。
ひめゆりの塔へ
沖縄滞在の2日目には、那覇から南東へ、バスで1時間ほどかけて「ひめゆりの塔」を訪れた。
敷地に入ると精霊が宿るとされる大きな「ガジュマル」の常緑樹があり、辺りは厳かな雰囲気を漂わせていた。塔に隣接して17年ぶりに展示をリニューアルした「ひめゆり平和祈念資料館」があり、沖縄戦の悲劇を詳しく知ることができた。
「ひめゆりの塔」は、米軍のガス弾攻撃を受け、多くの「ひめゆり学徒」や陸軍病院関係者が亡くなった「ガマ」と呼ばれる自然洞窟の上に立っている。
米軍の沖縄上陸作戦が始まる1945年3月、当時の沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222名と教師18名が、陸軍病院に負傷兵の看護のために動員された。そのうち136名が戦場で命を落としている。両校の校友会誌「姫百合」の名をとり、動員された生徒・教師たちは戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた。地元の人たちにより塔は1946年の4月に建立されている。
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校は、姉妹校のように、約8,000坪の敷地にある講堂、体育館、図書館、農場、同窓会館、寄宿舎、そして、当時沖縄で唯一のプールを共有していたようだ。全県下から難関を突破して集まった両校の生徒たちは、恵まれた教育環境の中で笑顔のあふれる学園生活を送っていたと資料館では説明がなされている。
生徒たちが動員された陸軍病院は、丘の斜面の横穴に、粗末な二段ベッドがあるだけの病棟だった。生徒たちは、血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えない中を昼夜なく働き続けることになる。負傷兵の看護のほかに、仕事は水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬など、弾の飛び交う壕の外でのとても危険な任務だった。赤十字の旗に守られた病棟で看護活動をするものだと思っていた生徒たちが見た現場は、絶え間なく砲弾が飛び交う戦場だった。
戦況が日本軍に不利になる中、突然、陸軍病院には「解散命令」が出て、生徒たちは米軍が目前に迫る中、壕を出て自分の判断で行動しなければならなくなる。
日本軍の司令官は、生き残った全将兵に対して降伏を許さず、最後まで戦うことを命じて自決する。その結果、米軍の攻撃から逃れることができない多くの住民、兵士が亡くなることになり、生徒たちの中には、米軍に捕まることを恐れ、手榴弾で自決する者も出た。
3月の動員から「解散命令」を受けるまでの期間、「ひめゆり学徒」の犠牲者は19名であったのに対して、解散命令後のわずか数日間で100名あまりが亡くなった。
先に触れた「ひめゆりの塔」の前にある自然洞窟は「伊原第三外科壕」と呼ばれ、ここで、「ひめゆり学徒」を含む陸軍病院関係者、通信兵、住民など、80名あまりが亡くなっている。
資料館の展示の初めのコーナーには、教師を囲んだ生徒たちの集合写真があり、将来を嘱望され、青春の真只中にいた女生徒らの輝きを表情から見て取れる。その後、彼女らの人生が戦争で一気に暗転することなど、写真の中の本人たちの誰が想像しただろうか。
また、資料館の別のコーナーでは「ひめゆり学徒」の同級生らによる証言がビデオで流されていた。当時皇国少女だった彼女らは日本軍が負けるとは夢にも思ってみなかったこと、そして、病院が地獄のような現場とは着くまで知る由もなかったことが語られている。
資料館は生き残った元学徒らにより1989年に設立され、展示や語りを通じて体験を伝えてきたようだ。リニューアルされた展示は、戦争を知らない職員たちにより、来館者と同じように、学徒たちには楽しい学校生活があったことを伝えることに重きをおいたという。
資料館の中庭では緑が茂り、美しい花々が咲き誇っていた。建物は、ありし日の母校を模して作られ、中庭の美しい花園は、戦場で尊い命を失った少女たちの御霊に捧げられている。庭からは女生徒たちの当時の賑わいが伝わるような気もした。
若い方々には是非、この地を訪れ、「ひめゆり学徒」たちの様々な思いを感じ取ってもらいたいと思う。
平和祈念公園へ
ひめゆりの塔からバスでさらに15分程度、東の海側の方へ向かうと平和祈念公園がある。その広大な敷地の中にある沖縄県平和祈念資料館を訪れた。短い時間ではあったが、ここでも、沖縄戦の実態を多くの資料、展示物から学んだ。
沖縄は、太平洋戦争で国内で唯一の地上戦の場になったこと、1945年の3月から90日間にわたり、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器が使われ「鉄の暴風」と呼ばれる苛烈な戦闘が行われたこと、日本軍の司令官が自決し戦いを止める指令を出さず、多数の犠牲者を出したこと、などを知ることができた。そして、日本軍にスパイ容疑をかけられ犠牲になった人、住民の間で米軍の捕虜になるより互いに殺し合い、自殺を選ぶ人が出たことも学んだ。当時、日本の軍部は米軍を沖縄で待伏せて持久戦に持ち込み、時間を稼いで本土決戦を遅らせようとしていた。そのための激戦が沖縄の地で展開されていたわけである。沖縄戦では、ほとんどの県民が動員され、島民の4分の一、約12万人が亡くなったとされ、軍人を合わせて約20万人が犠牲になっている。
資料館では、戦後27年間続く米軍による沖縄占領時代についても多くの展示があった。
米ソの冷戦という国際的な厳しい対立状況が続く中、沖縄は軍事基地の役割を担い、長い占領時代を耐えた。そして、1972年に、沖縄は本土に復帰するものの、日本全体の米軍基地の7割を沖縄の地が占めるという状況に変化はなかった。
資料館には、是非、多くの学生や生徒らが修学旅行などで訪れて欲しい。平和教育に最適の場所だと思う。
公園内には沖縄戦の犠牲者の名前が記された慰霊碑の「平和の礎」が建立されており、そこから海を見渡すことができる。目の前の美しい海の彼方からアメリカの軍艦が大挙して押しかける姿を想像することはかなりの困難を伴う。歴史の記憶はしっかりと刻む努力をしなければならないと感じた次第である。
首里城へ
沖縄滞在の最後の日、首里城を訪れた。現在、復興中の首里城を訪れた日はちょうど、正殿などの建物の火災被害から2年目に当たっていた。
歴史を辿ると、沖縄では本島の南山・中山・北山という3つの大きな豪族の勢力があった。その中で、南山の尚巴志(しょうはし)が沖縄を1429年に統一し、それ以降、尚家を柱とする琉球王国が1879年までの450年間続いた。首里城は王家の居城であり、王国の政治・経済・文化の中心地として栄えた。
首里城の裏手からぐるりと曲線を描く城壁を回り、正殿へと繋がる道を上がっていったが、石垣が見事に整然と積み重ねられており、築城技術の高さを窺い知ることができた。
1458年、6代目の王、尚泰久は「万国津梁の鐘」を鋳造し、正殿内に設置した。鐘の表面には、当時の琉球の様子が文字に刻まれ残されている。琉球国が、万国の津梁(しんりょう)、いわば架け橋となり、中国や日本、朝鮮、東南アジアの国々との外交・貿易で栄えたことが記されているようだ。
しかし、1609年、琉球は、王国の貿易利権を独占しようとする薩摩の島津氏の侵攻で、その独立を奪われる。近世の琉球王国は、薩摩に間接支配されながらも、江戸に使節を送り、中国とも冊封関係を維持しながら、国としての体裁を保ち、独自の文化を維持することになった。
そして、明治維新の廃藩置県で「琉球処分」が行われ、1879年、国王尚泰は退位させられる。沖縄は明治政府から、方言の抑制などの同化政策を強制され、日本の近代国家に組み込まれていった。
明治以降、首里城は荒廃し、先の戦争で建物は消失した。再建されたのは戦後のことである。その首里城の正殿を含む建物が2年前の火災で焼失し、沖縄の人たちの心の痛手はいかばかりであったかと思う。
今回、訪れた日には復興に向けての行事が行われていた。
首里城がいち早く完成し、元の姿に復元されることを願っている。
本土復帰50周年へ
さて、2022年、沖縄は本土復帰50周年を迎える。この間、何が変わったのだろうか。
アメリカの占領が終えた後も、日本政府は引き続き沖縄に基地負担を強いており、大城立裕氏が『カクテル・パーティー』で描いた沖縄の地位はさほど変わっていない。この小説では、沖縄人の主人公の娘が米兵に暴行を受けるという話が出てくるが、その後の1995年、実際に沖縄で暴行事件が発生し国際的な大問題になった。小説では、主人公の娘を沖縄の姿に重ね合わせ、占領下の不条理の中、困難に立ち向かう娘の姿に将来の希望を託した。残念ながら、その後も沖縄の地位は変わっていない。後年、大城立裕氏は普天間から辺野古への基地移転に関して「第二の琉球処分」だとして反対の立場を明らかにしている。
万国津梁へ
琉球王国の時代に、沖縄は海洋貿易国家となり、どの国とも友好を深めて、地域の架け橋になろうとした。
今日、沖縄の経済界は、現代の「万国津梁」になるという気概を示し、アジアの中で、香港やシンガポールに次ぐ経済の発展を構想しているようだ。
やがて、沖縄がアジアの輝かしい架け橋として繁栄することを願うばかりである。
P.S. 以上、本稿にて、2021年の4月以来、九州・沖縄8県を訪問しての旅のエッセイは一巡する。あらためて、九州が歴史的文化的遺産の宝庫であることが分かったことが何よりも自分にとっては成果となった。ご興味のある方はこれまで書いてきた各県のトピックにも目を通していただければ幸いである。これからも、九州をテーマとして、視点を変え、書き続けていきたいと思っている。
参考文献:
『カクテル・パーティー』(1967年 大城立裕著 岩波現代文庫)
『レールの向こう』(2015年 大城立裕著 集英社文庫)
『未来創造都市 沖縄』(2018年 安里昌利著 日本経済新聞出版社)
関連サイト:
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
那覇市歴史博物館
ひめゆり平和祈念資料館
沖縄県平和祈念資料館
首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城
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