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石橋正二郎と久留米 サント=ヴィクトワール山と楽水亭

久留米は海に面していない。阿蘇山から有明海へと流れる一級河川の筑後川が蛇行してこの町を貫いている。地理的には西九州を北から南、西から東へとつなぐ線の交差地点にあり、九州全体の地図を人の姿になぞらえると久留米は左の肺辺りに位置する。

ここから90年前に、後に世界的大企業となる会社が誕生している。ブリヂストンである。

ブリヂストンの創業者の石橋正二郎(1889-1976)は1920年代に、炭鉱や造船所、鉄鋼会社の労働者が履く草鞋(わらじ)に代えて地下足袋(ゴム底足袋)を開発し、ゴム製の足袋や靴の製造販売で世界的に成功を収めた。1931年には新規事業としてタイヤ事業に挑戦し、モータリゼーションの波を確信して周囲が反対する国産タイヤの開発に多額の資金を投入した。その時の決意を正二郎は当時の幹部に次のように語っている。

「(自動車タイヤの製造)は、当社の新事業として、またゴム工業者たる当社の使命と考えましてその必成を期しております。私は一家、一会社の問題ではなく、全く国家のため大いに働く考えで、将来ますます社会に奉仕せんとする理想を有する者であります。私の事業観は、単に営利を主眼とする事業は必ず永続性なく滅亡するものであるが、社会、国家を益する事業は永遠に繁栄すべきことを確信するのであります。」

今やブリヂストンは売上高3兆円を超え、世界150か国で事業展開を行うグローバル企業へと発展している。このことは「社会、国家を益する事業は永遠に繁栄」するという正二郎の理念が具現化されたものとして理解してもよいのではないだろうか。

久留米という江戸時代は20万石の城下町にあって、商売上手とはいえない士族出身の父の仕立物業を正二郎は17歳で兄と共に引き継いだ。そして、徒弟制度を改め近代的な経営手法を取り入れ企業経営者として成長することになる。

筑後川のほとりには今もブリヂストンの久留米工場がある。1930年代に東京に拠点を移した後も正二郎は故郷の発展に心を砕いた。彼は久留米が「楽しい文化都市」になることを望んだ。そして、「地元に受け入れられなければ国際企業になれない」ということを信念にしていた。
地方創生という言葉がない時代に、彼が夢見た地方都市の構想や企業と地元都市とのあり方について、今でこそ掘り下げる余地が多々あるのではないかと思っている。

今回、正二郎が構想した夢の一つ「石橋文化センター」を訪問した。花壇の薔薇が満開の時期を迎えていたこともあり、ここが市民が集う憩いの場所となっていることがよく分かった。博多から久留米までは九州新幹線で約15分、特急で30分ほどの距離である。

余談だが、久留米からは現在活躍中の数多くの著名人を輩出しているのをご存じだろうか。
代表的なところで、芸能人では藤井フミヤ、松田聖子、吉田羊、家入レオなど。実業家では、久留米大付設高校出身のホリエモン、そして、孫正義など。(ちなみに1928年の久留米大創設には石橋正二郎が建物や土地を寄付している)

「石橋文化センター」は現在、美術館、記念館、音楽ホール、庭園等で構成されている。郷土の文化施設の充実を願って正二郎が1956年に久留米市に寄贈したものである。センターの入り口の正門には「世の人々の楽しみと幸せのために」という正二郎のステートメントが石板に刻まれている。

正二郎は自分の趣味は美術と建築、造園だと著書で語っている。
印象派以降の西洋絵画のコレクションは東京京橋に昨年新しくオープンした「アーティゾン美術館」で一般に公開されている。また、東京北の丸公園にある国立近代美術館の土地と建物は正二郎が国へ寄贈したものであることをこのほど知った。

戦後、アメリカのロックフェラーと親交を深めたときに「お金は稼ぐことよりも使う方が難しい」と二人が意気投合した様子が著書で触れられている。陰徳を積むということを美徳にする日本にあって、これほど文化事業へお金を使っても人から嫌味も云われずにいた人も珍しいと正二郎を描く評伝の中には書かれていた。

さて、文化センターの話に戻る。正二郎は洋式の生活を好み、絵画や建築は西洋のものを好んだと伝えられるものの、造園だけは間違いなく日本式のものを好んだのではないか、これがセンターにある「楽水亭」から日本庭園を見ての私の個人的な感想である。そして、このセンターのハイライトが庭園だった。

「私はこれまで造園を趣味としてきた。しかし庭造りの技法に格別詳しいわけではない。ただ、美しい自然の景観に接すると身心が浄(きよ)められるように感ずるので、限られたなかに樹を植え、石を蒐(あつ)め、土を盛り、水を引いて自然の姿をここにあらわし、これが年と共に趣の生ずるのを楽しみにしている。古語に、知者(ちしゃ)は水を楽しむ、とあるが、石橋文化センター内に建造中の日本庭園もこの程完成し、その池畔の建物に楽水亭と名づけた。これは私の最近の喜びである。」と正二郎は庭園完成当時の挨拶で述べている。

さらに、「造園が好きで思うことは、松は松として、竹は竹として、それぞれに生きているということである。そして、お互いに譲り、お互いに立ち合って、初めて一つの美しい庭園美を作り出す。立った石、坐った石、それぞれに本当に生きている。」という言葉も著書に残している。
この造園に対する率直な吐露の中に、正二郎の人生観や経営観の一端を見ることができると思う。

数多くの文化事業や寄付行為を通じて社会に貢献することを考えた正二郎の実践は今どきの企業の社会的責任の先駆けとして先見性があった。今後、企業による社会的貢献という点でも久留米とブリヂストンの事例をさらに研究していくことは有益なことだと思われる。

さて、地方創生が求められ、東京一極集中の課題が指摘されて久しい。コロナ禍はこうした問題を改めて浮き彫りにし、企業や行政はこれまでのモデルからの転換を迫られているようだ。

アメリカでは主要企業の本社が地方都市に分散されていると聞く。日本でも数少ないが地方都市にグローバル企業の拠点がないわけではない。
今後、本社を地方へ移転したり、行政機関の分散化が進むような動きが活発になるのかどうなのか、関心を持って見守りたい。

久留米と石橋正二郎、そしてブリヂストンの例では、地方都市と経営者、企業が日本庭園の松や竹や石のように、それぞれが支え合い譲り合って全体としての調和の美を表現している。今後、多くの企業が地方移転を考える上で久留米の事例を参考にして欲しいと思う。

正二郎の著書『回想記』の最初のページの表紙はセザンヌの「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」(アーティゾン美術館所蔵)で飾られている。お気に入りの絵だと推察する。この絵と「楽水亭」から眺める日本庭園の光景を正二郎は比べたことがあるだろうか、ふと推測してみたくなった。


セザンヌの絵は色あせることはなく正二郎は見るたびにご満悦だったに違いない。しかし、日本庭園の姿は時を経て趣きが変わる。そこへ訪れるたびに新しい発見や驚きを楽しんだのではないか。そして、この庭園の光景こそが正二郎が故郷に戻りたくなる理由の一つにもなっていた、、、楽水亭のテラスに腰掛けながら、そんなことを空想してみた。

だいぶ長居をした。薔薇の香りに包まれながら感謝の気持ちでセンターを後にした。


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