古代の太宰府から考えた 中心が二つ 楕円の日本
「ここにありて筑紫や何處(いづち)白雲のたなびく山の方にしあるらし」
奈良時代の政治家、歌人の大伴旅人(665-731)は晩年に太宰府長官の任を終え京へ帰る。筑紫の地で山上憶良などの友人と杯を交わし、梅の花を愛で、歌を作った日々を懐かしんだ。この和歌はそうした旅人の心境が詠われているという。
万葉集研究の中西進さんによれば古代日本は奈良と太宰府という二つの中心を持つ楕円国家との見方もできるという。
太宰府は「遠(とお)の朝廷(みかど)」とも言われ、九州を統治する行政機関であり、また、大陸や朝鮮半島の最新の情報を取り入れ、外交、防衛では国を代表する役割を担った。
旅人は太宰府の行政の長でありながら筑紫の文化人との交わりを大切にしたようだ。
ちなみに、彼が主催する「梅花の宴」で作られた歌群が万葉集に収められており、その序文から元号「令和」の文字が選ばれたという説が世上広まっている。
「東風(こち)吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
平安時代、旅人から約170年の時を経て、京都から太宰府へ左遷され再び京に戻ることのない政治家がいた。菅原道真(845-903)である。
道真は学者の家に生まれ、若いころから文才を発揮し「文章博士」という教官の任で朝廷に仕えた。そして、四国で行政官として活躍した後、時の宇多天皇の側近として重用され最高位の官職に上り詰める。しかし、道真の天皇家への影響力に疑いを持つライバルから謀反の罪を被せられ、太宰府へ島流し同様の処分を受けることになる。
先の歌は、太宰府へ発つ前の無念さを梅に託して作られたといわれている。道真は太宰府へ送られた後、2年ほどの時を経て生涯を終える。自分の遺骸を京に帰すことは望まぬという遺言を残したと伝えられている。
先日、新緑が燃え立つ太宰府天満宮を訪れた。樹齢千年以上と目される楠の巨木があちらこちらで境内を睥睨している。太鼓橋を渡り本殿へ通じる道を歩きながら、道真の無念に思いを馳せた。
道真は没後しばらくして完全に復権し、神様として太宰府天満宮に祀られた。その後、「学問・至誠・厄除け」の天神さまとして慕われ、天神さまを祀る神社は全国に広がっている。
菅原道真という学者肌の政治家がいて、その不遇の最期に人々は心を痛めた。そして、その無念を晴らし、学問の神様として崇拝する動きが広がる。やがて、天神さまのストーリーは寺子屋や祭りを通して広がり、浄瑠璃、歌舞伎などの芸能でも取り上げられ伝説と化し全国に席巻した。
日本人の心性に道真のストーリーは響き渡ったようである。怖れながら現代風に置き換えれば、天神さまは九州発で全国区となった史上初のコンテンツではないだろうか。コロナ前、天満宮には年間約1千万人の参拝者が訪れたという。
天満宮の近くに2005年、国内で4番目の国立博物館として開館した九州国立博物館がある。ここにも訪れた。この博物館の「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」というコンセプトがユニークだ。常設展には古代から近代までの九州を舞台にした海外との交流の歴史を表す資料が充実していた。
当然のことながら、展示では太宰府の歴史にも多くのスペースが割かれている。
唐と新羅の連合軍に対して、百済と倭が共に戦った白村江の戦い(663年)の後、最前線司令部の太宰府で防衛体制の構築が急務だったことが政庁、大野城、水城などの遺跡の資料が物語っている。大伴旅人が生まれたのはその白村江の戦いの数年後のことである。博物館の入り口近くには、冒頭に掲げた旅人の歌碑が設置されていることも付記しておく。
博物館には北部九州を舞台にした2度に亘る蒙古襲来(1274、1281年)についても展示がある。戦争を前にしてのモンゴル、高麗との外交交渉は太宰府の地で行われており、その後、実際の戦闘は対馬、壱岐、博多等を主な舞台として行われた。日本列島で、第2次世界大戦前に外国との大規模な地上の戦闘が行われたのはこの戦争ぐらいではないだろうか。700年以上も前の話であるが、戦地となった北部九州にある博物館での展示だけに、当時の緊張をより身近に感じることができた。
鎌倉時代に入り、太宰府は次第にその役割を終える。奈良から平安時代にかけ、東アジアの国際関係の中で国の外交と防衛を担った太宰府は当時日本の楕円の中心の一つであったと目されてもよいのかもしれない。
さて、いきなり話を現代に移そう。
九州では21世紀に入ってから県知事を中心に「九州府」を作ろうという動きがあったようだ。道州制の議論が華やかりし頃である。
そして、今では九州を一つの単位として九州全体の成長戦略を考えようとする知事会や経済団体の動きが伝えられている。
九州を日本の成長センターにする、日本のアジアへのゲートウェイ(玄関口)にしたい、そうした議論がなされているようだ。
九州府の創設がいいのかどうかは別として、九州を一つの単位として考えて、これからのビジョンを考えることは有益なことかもしれない。
太宰府の歴史に学ぶ、万葉の歌人に思いを馳せる、学問を尊び、誠実さを大切にする風土に学ぶ、こうしたことから新しいビジョンを作る上でのヒントも出てくるのではないだろうか。
筑紫は古代、九州全体を指す名称だったという。大伴旅人は、今の時代に中央から九州へ赴任する人たちにとっては大先輩にあたるだろうか。旅人のように、赴任が終えた後も筑紫(九州)に思いをいたす人が多くいて欲しいと願っている。
九州の将来ビジョンを考える上で、住む人にとってだけでなく、外から思いを寄せる人たちにとっての九州も考慮に入れて検討してみてはいかがだろうか。
太宰府を訪れ、歴史に学ぶことで、様々な思いが去来することになった。
天満宮から太宰府駅までに通じる参道では「梅が枝餅」とお茶を出す店が多く軒を連ねている。茶屋の一つで抹茶と焼いた小豆入りの薄皮餅を美味しくいただいた。餅は梅の刻印はしているが梅の味がするわけではない。お土産を忘れずに持ち帰り帰路に着いた。
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