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こんなはずじゃなかった

 瑞樹は過去を振り返らない。それは前向きに生きているからではない。振り返ってもろくな思い出がないからだ。

 瑞樹は騙された経験があった。それも、相手は女性だ。
 あのときはまだ若かった。大学の先輩女学生に気を許した。その人はプレゼントをくれた。
 自分には姉が二人いる。でも、姉ならば姉らしいことをすると思うのは、姉を持ったことのない人の思い込みだ。親でさえプレゼントをくれたことがない家だった。
 だから、この先輩は真に自分を大事にしてくれていると思った。そんな幸せに浸っているさなかに、勉強会に誘われた。大学にいても社会に対する目を養っておかないと、と言われるままにその会に出席した。やがて、キャリアアップ、自己実現を謳うその会の虜になった。つまり、心酔した。そして、いつの間にかその先輩はいなくなり、洗脳された自分だけが残った。その勉強会は、いわゆる自己啓発セミナーと呼ばれる、悪評高い代物だった。

 今年は令和2年、瑞樹は35になった。これまで、人生の節目節目で様々な期待をいだき、その殆どで失敗した。瑞樹はその都度、
「こんなはずじゃなかった」
 とつぶやいた。
 瑞樹は人の言うことを信じ込む癖があった。時は、小学時代まで逆上る。
 瑞樹の今の身長は普通だけれど、その伸びる時期が人並み外れて早かった。だから、瑞樹が小6のときには全校で一番背が高くなった。体が大きいと運動能力も人よりすぐれるから、特に技のいらない陸上競技、その中でもただ走ったり跳んだりするやつは何をやっても一番で、大会にも出た。それで先生にも随分褒められて、
「君には陸上競技の才能がある」
 とまで言われた。瑞樹はすっかりその気になった。
 中学生になると、当然のように、と言うかそれが天命であるかのように、陸上部に入った。ところが、その中学校の低学年で、瑞樹の背の伸びはピタリと止まった。その反対に、瑞樹以外の男子の背が急速に伸びた。その結果、瑞樹の走りはみるみる凡庸になった。こんなはずじゃなかったと思った。でも、どうしようもない。クラスの中の陸上部でない子にも大方負けた。走れない陸上部、跳べない陸上部は惨めだ。それまでの羨望が侮蔑に変わった。瑞樹は卒業を待たずに陸上部を辞めた。
 瑞樹は高校生になった。もう陸上部には入らない。でも、頭のどこかにまだ小学校の先生の言葉が残っている。だから、高2も終わりに近づいて、そろそろ進路を考える頃に、大胆にもこの先は陸上で生きていこうと決心した。体育大学に行くと言い出した。これには親が慌てた。普段は子供の進路などに口出ししない父親が、
「それで君は何の種目を選ぶんだい?」
 と尋ねた。瑞樹は一言もなかった。彼は日頃さしたる理由もなくこの父親を嫌っていたが、かと言って逆らうだけの信念も実績も持っていなかった。あるのは、5年も前にもらった小学校の先生のお褒めの言葉だけだった。さすがにこれを持ち出すことは出来なかった。
 こうして瑞樹は路頭に迷ってしまい、途方に暮れた。だがその時、たまたま学校で外部の講師を招いた講演会が開かれた。内容は人口爆発下での食料確保の重要性を説くものだった。瑞樹はこの講演にいたく感化された。進路について決断を求められているという台所事情もあったのだが、瑞樹はその時まるで白いカンバスのような状態であった。何の予備知識もなかった。そこにたっぷり色の付いたペンキがかかったのだから、ひとたまりもなかった。たちまちその講師の色に染まった。もともと人の言うことを信じ込みやすい人間であった。瑞樹はその講師の先生に心酔し、乗せられた。自分の進路は食糧問題、これしかないと固く決心した。勇躍して農学部のある大学を選んだ。

 あれからもう15年が過ぎたと思うと感慨深い。
 瑞樹は何とか農学系の大学に入学できた。瑞樹だって少しは考える。もう、後で後悔するような人生は繰り返さないと心に誓った。だが、またもやそれは彼の期待通りにはならなかった。
 大学に入って初めの3年は、早く研究がしたいと思いながらそれなりに過ごした。4年になってようやく念願の研究室に入り、教授から指示された課題を始めると、それはマウスを使った実験だった。瑞樹たちは日々マウスを飼育した。そして、そのマウスに処理を与えて反応を見る。簡単に反応を見ると言うが、組織を取り出して分析しないと分からない。組織を取り出すということは、そのマウスは死ぬということだ。それを営々と繰り返す。つまり、食糧事情の改善という崇高な目標を持っているとは言え、言葉を変えれば瑞樹は小動物の殺戮係だ。こんなはずじゃなかったと思った。
 それでも瑞樹は研究を続けた。続けたけれども、この殺戮を一生かけて続けるつもりにはどうしてもなれなかった。だから、一応の成果を得て課題を終えた後は、就職の道を選んだ。基礎がだめなら実践だ。食糧問題に関係しそうな会社を希望した。だが、当時は就職氷河期だ。なかなか思い通りにはいかない。ようやく東北の1地方都市にある、中小の食品関係の会社に滑り込んだ。
 出だしからそんな感じだから、その会社も期待どおりとはならなかった。現実は厳しく理想からは遠い。いざ社会人になり現実に直面すると、実際の現場は売上向上に汲々としているだけで、そこに世界の食糧事情改善などという雰囲気は全くなかった。それどころか、そもそも回りの人間にそんな大望を抱いて会社に入った者はいない。皆、各々の小さな生活を守るために、日々のルーチンを黙々とこなすだけだ。こんなはずじゃなかった。この先退職するまでの数十年、この小都市の閉塞的な環境に閉じ込められて、ただ毎日の作業を続けるだけなのかと思うと嫌になった。そしてそのとき、瑞樹の脳裏にはあの騙されたセミナーの教えがよみがえった。
「いや、それこそがキャリアアップの出番と言える。今が転職のチャンスなのだ」
 そのカリスマ講師は力説していた。そしてこの時、瑞樹を引き止める親は近くにいなかった。

 その後の瑞樹の人生は坂道を転がり落ちるようなものであった。
 今考えれば、多々不満はあったが、初めの会社はそれなりに良い会社であった。でも、そこを飛び出して、名が知れた大企業に転職した。当初は瑞樹もそれを喜んだ。これこそがステップアップだと感激した。ところが、そこはとんでもないブラックだった。毎日罵詈雑言が飛び交うような会社であった。
 とてもここには居られないと、瑞樹はすぐにその会社を辞めた。でもそのままでは食べていけない。だから、また転職する。すると、次は上司がパワハラで・・・その繰り返しだ。もうキャリアアップなぞと言ってられない。食糧問題もどこかに行ってしまった。坂道を落ちるだけ落ちて、今の会社に落ち着いた。やっていることは経理事務で、言ってみればお金の勘定だ。大学で学んだことは全て無駄になった。
 
 これが、瑞樹の振り返りたくない半生だ。少し落ち着いたところで、これは何とかしなければならないと考えた。まず取り上げるべきは、相談相手がいないことだ。これまで瑞樹は全てを一人で決めて、そのすべてで失敗した。瑞樹に友人はいない。親はとうの昔にこちらから拒否してしまったから、今更泣きつくことはできない。ここが第一の問題だ。
 身近な相談相手がいたらと思う。もっとまともな人生を歩めたのではないかと考える。大体、瑞樹だって男のはしくれだ。正直言って伴侶が欲しい。もう30を超えて、何事もままならないこの頃では、瑞樹が必要としているのは拠り所、はっきり言えば結婚相手だ。でも、ここが難しい。瑞樹は恥ずかしがりで、異性の前では緊張する。そして、世の女子は緊張する男を好まない。話しにくい男は嫌われる。こんなことでは一体、どうやって相手を見つけろと言うのか。

 瑞樹はハウツー本を好んで読む。その理由は簡単だ。何をやって良いか分からないとき、答えがそこに書いてある。
 瑞樹は平和な人間だ。漫画も闘いの多い劇画系は好まない。平和に終わるドラエモンが好きだ。
 この漫画では、願いがかなうための道具をドラエモンが用意してくれる。瑞樹はこれに憧れた。何かあればドラエモンに聞いてみたい。でも、現実にはドラエモンはいない。だから代わりを探さなければならない。そこでハウツー本を思いついた。これは我ながらいいアイデアだ。これなら困ったときには本を買えばよい。そして、その本を読めばよいのだ。
 でも、今回のように自分の伴侶を見つけるなぞという大それた目的で、ハウツー本を使うのははじめてだ。だから瑞樹も少しは躊躇した。でも、結局はハウツー本を頼りにした。こうして見つけた相手が和緖だった。知り合ったきっかけはマッチングアプリ、ハウツー本の指示通りだ。
 
 和緖は瑞樹より5つ歳下で、トラックの運転手をしている変わり種だ。
 元気のよい子だ。ソフトをやっていた。丈夫が服を着たような人間だ。いかにも骨太な感じがする。
 この子が人を苦手とするのは不思議だ。しゃべりが得意でないらしい。傷つきやすいところもある。上手く立ち回れない。人付き合いが苦手なのだ。だから運転手をやっていると言っていた。
 でも鈍重じゃない。まめで、いつも動いている。この点が体育会系らしくて、瑞樹と随分違う。丑年の瑞樹の方がよっぽど鈍重だ。
 彼女は余りしゃべらないと言っても、話が嫌いなわけじゃない。相手の話もよく聞く。瑞樹もしゃべる方ではないし、それでいて話は聞いてほしいタイプだから、この点は嬉しい。そして何より性格に嫌味がない。いつも機嫌がいい。それは自分も同じだと瑞樹は自負している。だからお互い付き合いやすい。マッチングアプリも捨てたものじゃない。

 付き合い始めて1年がたった。
 ハウツー本には、出会いの後にめでたく入籍するまでのやり方が、タイムスケジュールまで一緒に記されている。これまでのところ、本に書いてあるとおりに進んでいる。
 そろそろだ、と瑞樹も思う。この子は年上じゃないけど頼れる人だ。拠り所を求める自分にピッタリだと瑞樹は思う。
 この間も、和緖は何か勤めの関係で深刻らしく、瑞樹をラーメン屋に誘ってきた。この時は、止せばいいのに昔の食糧問題の癖が出て、昆虫食の話なぞしてしまって後悔した。でも、和緖は我慢して聞いてくれた。彼女の話はトラックの問題らしい。やはり危険を伴う職業だから色々あるのだろう。もっとよく聞いてあげればよかったと思うのだけれど、それでも彼女の、この先を考えている気持ちはよく分かった。あとは瑞樹がどうするかだ。それは分かっている。でも、一方で逡巡する自分がある。
 
 瑞樹はそこまでハウツー本の言うとおりにして良いものかと考える。うまく行きすぎて却って気味が悪い。セミナーの記憶もまだ残っている。騙されたらどうしようと腰が引ける。それに、めでたく結婚できたとして、また「こんなはずじゃなかった」となるのが怖い。一緒にはなりたいが、過去の自分がトラウマになっている。
 でも、もたもたしていると、また手からスルリと逃げて行きそうで、それも恐い。
 
 今、瑞樹は勤めを終えて、一人でポツネンと佇んでいる。
「今頃どこを走っているだろう」
 手をかざして空を見上げる。和緖は瑞樹にとって日の光だ。地球が太陽を失ったら破滅しかない。
 大事な存在とはせつないものだ。それは失うことを恐れる証拠だ。
「だからこそ」
 と瑞樹は思った。ここで恐れてはいけないのだ。勇気を出して決意すべきだ。
 瑞樹はあらためて思い直した。「振り返らずに一歩を進める」、それが大切だと心に決めた。

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