ここはどこだ。ミスってしまった。 見慣れた九州のはずだ。でも、山も緑もあるのに何かが違う。「それはなぜか」としばらく考えて、ハッと気が付いた。音がしないのだ。 いや、時折変な音は聞こえる。何か低い「ゴゴッ」という声のようなものが遠くから響いてくる。木の枝越しに何かが動く。大きな生き物の頭みたいだ。あれはもしかして・・恐竜じゃないか。トキの喉に酸っぱいものがこみ上げてくる。 トキは知識を総動員する。静かだと思ったのは聞き慣れた鳥の鳴き声が聞こえないからだ。恐竜がいた頃、
「あ、ベンツが来る」 省吾は緊張してその車を停めた。 「ここ、迂回してもらうんですよー」 この何とも言えない抑揚を身につけるのに結構かかった。 中年を大分過ぎたおば様が、先の工事現場をにらむようにしてハンドルを握っている。 「こんな赤いベンツなんかに乗って。こういう人の毎日の生活はどんなだろう」 想像しようと試みるが、とても無理だと気がついて、すぐに止める。 省吾は警備員をやっている。 74歳になった。前職のサラリーマンを定年退職してから10年が経とうとしている
千吉は赦免船に乗っていた。船倉の中にいるから外のことはうかがい知れない。 暗い。目つきの良くない輩がゴロゴロしている。ここなら腕の入れ墨を隠す必要もない。 玄斎のことを思い出した。彼が死んだのはすぐこの間だ。入れ替わるように赦免になった。偶然とは思えない。 「住吉に行け」 彼の口癖だった。 船端の小さな隙間から無理矢理外を覗くと、大きな島が見えた。山の上からかすかな噴煙が上がっている。 「あれが大島か」 期待はあるが不安もあった。それはあまりにおぼつかなくて、千吉
早百合は悠介と一緒に新婚向けの料理教室を受講していた。最近流行りだそうだ。男女の共同参画はここまで来たのかと、早百合は感じ入っていた。 この教室はごく小規模で、若い夫婦がやっている。若いと言ったって、早百合が見るからそう見える。大方の受講者はこの夫婦より年下だから、そうは思わないだろう。要は、それだけ早百合達が新婚にしては歳を取っているということだ。 ところで、「この作業は何だかママゴトみたいだ」、と早百合は思っている。でも、実際はママゴトでも何でもない。これは本物だ。
瑞樹はラーメンをすすった。 「またラーメンか」 と思う。何かあるといつもラーメンだ。そして今、この「何か」とは離婚のことだ。 丼の縁に書いてある「喜」の字が、スープから半分顔を出している。仲良く2つ並んでいて楽しそうだ。何がそんなに嬉しいのだろう。 瑞樹には当然のこと、連れがいない。色々な局面でそのことを思い知らされるが、ラーメン屋はまた格別だ。なぜだろう。 風が吹き込んで来て、ラーメンの湯気がフラリと揺らいだ。 瑞樹はひと月前にバツイチになった。38だから、そ
入相の鐘が聞こえてきた。賭場の中は既に暗くて、重苦しい空気が澱んでいる。 千吉はツボ振りの手元を凝視した。つかの間の静寂。 「俺は一体どうなるんだろう」 言いしれない不安が肩のあたりを駆け上がった。でもその一方で、不安を打ち消すくらいの安心感も心のどこかにあった。千吉には正太郎がいた。 「若旦那さえいれば何とかなる」 千吉は頷いた。 千吉は神田神保町に店を構える呉服屋の手代だ。生まれは近くの棟割長屋で、父親が煮売り屋をやっていた。男の子が二人いて、千吉は次男だか
ハヤトは自転車を漕ぎながら開聞岳を見る。いつもの風景だ。ここをパワースポットとか言う人がいる。「どこが?」と思う。どうせ都会の人間が言うのだろう。都会は違うらしい。行って見たい反面、この温かい海のような風景にいつまでも浸っていたい気もする。 ハヤトはSF好きの青年だ。東京でオリンピックが開かれた今年、高校3年生になった。3年前の1961年、ガガーリンが人類で初めて宇宙旅行に成功した。ハヤトはこれにいたく感化された。将来宇宙飛行士になろうと心に決めた。鹿児島から宇宙飛行士が
瑞樹は荷物を送り出してがらんどうになった部屋に佇んでいた。これで結婚の痕跡がほぼ消えた。 早い。ラーメン屋で和緖に昆虫食の話をしたのは結婚前だ。その後まもなく結婚して、2年も経たずに離婚した。 最近、その昆虫食の会社の一つが潰れた、と新聞に書かかれていた。SDGsもめっきり聞かなくなった。この時代の移り変わりの早さについて行けない。それに付き合って、こちらも速く回転する必要はないのだけれど。 離婚届を出してから2週間が経った。瑞樹は元妻という肩書が加わった和緖の顔を
和緒は包丁の先をながめた、この包丁は何を思うだろう。 包丁の腹に反射して、後の様子がボンヤリと見える。夫の瑞樹がテレビのお笑い番組を見ていて、見ながらタブレット端末をいじっている。一生懸命だ。何だか馬鹿みたいだけど、そこがせつない。 あの人は、目の前で妻が1時間も台所に立ち続けていることに気付いていない。ましてや、その妻が洗い物をしているようで、実は手を止めて包丁を眺めていることなぞ知る由もない。 和緒は今33、瑞樹は5つ上だから38だ。婚活サイトで知り合った。結
鈴木一郎、それが彼の名だ、歳下だから一郎君と呼んでいた。会社の同僚だけれど、早百合の感覚は少し違う。気がついたときには確かに会社にいたが、その人がずっとそこにいたのか判然としない。普段はまるで気配がないのだ。いるのかいないのか分からない。それが、ごくまれに強烈な光を放つ。だから、周囲に鮮烈な印象を残す。 あれは彼が入社してどれほど経った頃か。普段の印象が薄いからはっきりしない。昼下がりの眠気と戦っているころに突然独特の声音が聞こえてきた。 「課長。パソコン、マックにし
茜は目が点になった。8万円!。お店の奥さんが持って来た会計のメモ書きを眺めて自失する。でも、こうしてはいられない。素早く人数割りにする。割り算は得意だ。 確か小さな皿が5つしかなかった。あとはお酒がちょっとだ。 店の御亭主と何やら談笑している3人のママ友たちを見つめる。小綺麗な格好をした彼女たちは、メモを見ても動じる風が微塵もない。ニッコリと、余裕たっぶりの笑みをこちらに投げかけて来る。 茜は東北生まれだ。親から逃げるためにわざわざ大阪の大学に行った変わり種で、その
「のどかだ」、と鉄男はタコ焼きを焼く手を止めて外を眺めた。昼下り、ショッピングモールの駐車場。ウィークデイだから空いている。それでも、小さな子を連れたお母さんらしい人が、三々五々買い物に来る。子供を引き付ける工夫が必要だ、と鉄男は思った。 同意を得ようと、首を回して翼を見やる。でも、翼は黙々と片付けをしていて問いかけかねる。 この静けさは嵐の予兆だ、と鉄男は考えた。 鉄男と翼はキッチンカーの中にいる。二人は幼馴染だ。3年前に一緒になった。それまで、鉄男は鉄筋工をやっ
平成10年、千草は50になった。 今、新幹線に乗って仙台に向かっている。30年前に東京に出てきたときのことを思い出した。急行松島、5時間半かかった。それが2時間もかからない。 隣の席を見る。一人娘の翼が珍しそうに外の景色を眺めていた。修学旅行にいく子供みたいだ。もう高校3年生なのに。 この子に千草の母親、つまりこの子の祖母のことを話したことはない。だから、この子は何も知らない。でも、何の疑いもなく付いてきてくれた。 こんな素直ないい子が出来るとは思わなかった。自分
土曜日の昼過ぎ、瑞樹はマンションのベランダに立って外を眺めていた。小さな飛行船がそう遠くない空を漂っている。一瞬、部屋の中にいる和緒を呼ぼうかと思った。でも・・止めた。 和緖は32歳、トラックの運転手をしている。瑞樹は37歳、ごく普通の会社の事務職だ。だから、2人はちょっと珍しい組み合わせだ。婚活サイトで知り合って、今から1年前の令和3年に結婚した。そして、一緒に住み始めた。普通そうする。でも瑞樹は今、そのことについて改めて考えていた。結婚の難しさを噛みしめていた。少し
正子は首を傾げた。確かに孫はかわいい。でも、これはちょっと酷くないか。2時間でも3時間でも、もう泣きっぱなしだ。途切れることがない。すっかりお手上げだ。 この孫は次女茜の一人娘だ。もうすぐ1歳になる。 正子は夫の省吾の退職とともに東京に出てきた。5年前のことだ。そうしたら、あろうことか、あの親を避けてきた茜が正子たちのそばに住むようなった。 こちらから近づいたのではない。あちらから寄ってきたのだ。目先の効く子だからちょっと不気味だ。何をどこまで読んでいるのか分からな
翼は口が回る。おしやべりというわけではないけれど、とにかく回る。 普通の女の子をはるかに超える、と自分では思っている。それで高校を出る頃には、将来は会社で営業か何かをやろうと思っていた。でも、「それでは手に職がつかない」と、母親が強烈に反対した。一人娘の行く末が心配らしい。結局、翼も納得した。理容師の専門学校に入って、苦労してそこを卒業した。そして今平成14年、翼は21歳になった。理容師の卵をしている。昔で言えば見習い、今風には研修員だ。 東京の下町、どこにでもある