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手代千吉、罪と罰

 入相の鐘が聞こえてきた。賭場の中は既に暗くて、重苦しい空気が澱んでいる。
 千吉はツボ振りの手元を凝視した。つかの間の静寂。
「俺は一体どうなるんだろう」 
 言いしれない不安が肩のあたりを駆け上がった。でもその一方で、不安を打ち消すくらいの安心感も心のどこかにあった。千吉には正太郎がいた。
「若旦那さえいれば何とかなる」
 千吉は頷いた。

 千吉は神田神保町に店を構える呉服屋の手代だ。生まれは近くの棟割長屋で、父親が煮売り屋をやっていた。男の子が二人いて、千吉は次男だから呉服屋に奉公に出された。
 丁稚の頃は辛かった。でも、ここの店は大きいから、丁稚にも素読をやらせ、十露盤を置かせてくれた。千吉はめきめき腕を上げた。それに、千吉は根が明るくて口が回った。人の懐に飛び込むのが上手だった。それで大旦那に気に入られた。
 元服のときに手代になった。今から6年前だ。特に千吉は2つ歳下の若旦那である正太郎と仲がよかったので、これも手代に引き立てられる後押しとなったのかもしれない。

 若旦那とは小さいときから一緒に育った。でも、親しいのはそれだけの理由からじゃない。
 呉服屋の若旦那ともなると大変だ。店に出ることは滅多になくて、主に外商を引き受ける。これが、若旦那には大変な苦痛だった。
 若旦那は口下手で、その性格がすこぶる内向的だ。口八丁手八丁な営業なぞできるはずがない。その代わりに、若旦那は天才的な戯作者だった。
 若旦那は小さい頃から本を読んだ。ただ読むだけでなく、何かを思いついては帳面につけた。いつしかその帳面が貯まりに貯まって、その様子が評判にもなり、版元の耳にも届いたわけだ。
 古来、版元というものは新しい出し物に飢えている。だから、この幼い物書きに飛びつかないわけがない。ましてや、若旦那は二刀流だった。文章を書く傍らで絵もとびきり上手だ。つまり、若旦那は草双紙の挿絵も描いた。これは大人でも滅多にない事だ。文章は馬琴の手筋、絵は国貞の流れ、という具合だ。だからこの本が売れに売れる。版元も天才として若旦那を宣伝する。それで、また本が売れるようになる。好循環だ。
 こうなると、若旦那も好きな仕事だから戯作に専念したい。でも、専念すると若旦那本来の仕事、外商が疎かになる。ここで千吉の出番となるのだ。
 千吉は自他共に許す口上手だ。天性の人たらしと囁かれている。だから、若旦那は千吉に外商の仕事をまかせる。もちろん、その都度若旦那に報告したり、判断をお願いしたりするのだけれど、人との折衝は千吉がすべて引き受ける。これで万事が上手くいく。
 おまけに、事はそれだけにとどまらない。千吉の役割は若旦那の戯作にまで及ぶ。これだって人との関わりが結構ある。子供が大人になったような若旦那には苦痛の種だ。そこでまた千吉の出番が来る。版元との交渉も、いつの間にか千吉が引き受けるようになる。彫師や摺師とのやりとりも千吉がする。はては墨をすったり、元帳、つまり金の管理だって千吉に任せるようになった。思えば、これが良くなかった。
 とにかく、若旦那が創作に専念できるよう、千吉は若旦那の身の回りの事を、何別け隔てなくやるのである。それは他の人だって承知している。そうは広くない店のことだから、隠しておける訳がない。公然の秘密ということだ。それでも、誰も文句など言いはしない。却ってこの噂が広まって、千吉は忠勤の見本ともてはやされた。若旦那だって、「みんな千吉さんのおかげです」と周りに言った。千吉は素直にそれが嬉しかった。

 こうして若旦那は次々にヒットを飛ばす。千吉は営業の成績を上げる。順調だ。だが、好事魔多し。ここに大きな落とし穴があった。それは千吉が抱える問題だ。
 千吉には親も知らない秘密があった。それは千吉がまだ幼い頃の事だ。近所の子供らが亀をいじめていた。でも、千吉は動物好きだ。亀を助けてやりたかった。そこで千吉は提案した。下駄を投げて裏返ったら千吉の勝ち、亀はお咎めなしという塩梅だ。子供らはこの提案に興味を示した。そして・・千吉は勝った。亀は解き放たれた。
 この成功体験が千吉に何かを学ばせた。何かが欲しいとき、あるいは人に何かをやらせたいときに、苦労して自分が手を下す必要なぞない。賭け事がその代わりをやってくれる。そして、自分は賭け事に強い。以来、千吉は賭け事にのめり込んだ。
 それでも、奉公したての丁稚のころは千吉はそれを控えた。大体、賭け事をやろうにも元手がなかった。手代になって、やっと何がしかの金を動かせるようになった。勇躍、千吉は賭け事を始めた。その賭け事と言ったって、子供ころのように下駄を投げるわけではない。サイコロ、立派な賭博だ。千吉は賭場に出入りしていた。
 だが、いざやり始めると、千吉は、賭け事がそれ程強くなかった。それは子供の遊びではないのだ。こうして千吉は負けが込んだ。でも、千吉はやめなかった。やめられなかった、と言ってよい。
「いずれ負けを取り返すだけの勝ちが来る」
 千吉はそう思い込んだ。
 でも、金がなければ勝負はできない。そして、負ける千吉には金がない。ところが、賭場には金貸しがいる。金がない千吉に金を貸して勝負させる。
 それでも、初めの頃は金貸しだってそう自由には金を貸さなかった。一介の手代に過ぎない千吉に、返す力なぞないと踏んだからだ。でも、そのうちに千吉が若旦那の手助けを始めて、しかも若旦那の本が売れてくると、金貸しの態度がガラリと変わった。いくらでも貸してくれるようになる。そして、千吉はまた負け続けた。借金は数百両に膨らんでいた。そして・・千吉は若旦那の金に手を付けた。一度手を付けてしまうと、その額はみるみる増えて行った。

 破綻の日は間もなく訪れた。それはまだ桜の声を聞かない初春の一日だった。
 若旦那にはいい事が続いた。最近、本を出す版元が変わった。今度の版元は店が大きくて、売れている戯作者を数多く抱えている。だから、その契約の金も破格だった。数千両と噂された。それと、若旦那は祝言もあげた。相手は染物屋のお幹だ。これは誰も気が付かなかった。店中がその話題で持ち切りとなった。
 これと比べて千吉は暗かった。もちろん賭けのことは誰も知らない。新しい版元も千吉のことを重宝して、相当額のお手当を支払ってくれる。若旦那だって今まで通りに千吉を信頼している。何の心配なこともない。
 千吉が気がかりなのはお上の動きだった。この前も同心の中村様が店に来て、番頭さんと話をした。賭場では取り締まりの噂がたった。そして昨日、何を聞かされたのか、かわら版屋が千吉の袖を引いた。その場は知らぬ存ぜぬと言ったが、そんなものは何の慰めにもならなかった。そして・・その日が来た。

 千吉はお縄を受けた。若旦那をはじめとして、何も知らない世間様は大騒ぎだ。善行の見本と褒めそやしていた千吉が捕まるなんて。それは驚くのが当然だろう。
 お取り調べ。そんなものは簡単だ。金貸しに金が戻り、千吉にその金がないとなれば、その出どころは店に決まっている。普通と違うのはそれが若旦那のお金で、当人が何年もそれに全く気づかなかったことくらいだ。千吉が下手人であることは疑いようがない。大体、当の千吉がそれを否定しない。
 若旦那は「千吉が盗んだ」と言ったらしい。これは風の便りで千吉は知った。「自分が代わりに金貸しに払ってやった」と言ってくれれば無罪になったのに。千吉は淡い期待を持っていた。そしてすぐにそう思ったことを恥じた。それは無理な願いというものだ。何の罪もない若旦那に片棒を担がせるなんて。大体自分は自白している。今の世の中、自供は一級の証拠の品だ。
 かわら版は千吉を嘘つきと罵った。世の人達も金と能力の両方を持つ若旦那を持ち上げて、どちらも持たない千吉を踏みつけた。
 桶一杯の水はたった一滴の墨で黒くなる。千の善行も一の悪行で帳消しだ。真っ白な正太郎を真っ黒な千吉が騙したというわけだ。これまで褒めたたえていた同じ世間が、今では容赦なく千吉を叩くのだ。「下心を持って若旦那に取り入った」と言いたいのだ。でも、「それは違う」と千吉は思っている。若旦那の力になったのは、「そうすることが自分の性に合っている」、ただそれだけのことなのだ。別に若旦那のお金を使いたかったからでも何でもない。でも、誰もそれを信じてくれない。
 とにかく、その後は一気呵成の成り行きだった。牢屋にいた千吉には、何がどうかもよく分からない。あとはお白州に引き出されて、千吉は首をたれて処罰の宣告を受けたのである。

 西の空が朱に染まっている。ここでは富士と呼ばれる山が、何を言うこともなくポツネンと佇んでいる。
 あれから大分経った。盗んだとされる額を考えると、千吉は当然打ち首獄門になってしかるべきだ。だが、千吉は生きていた。そこに若旦那や大旦那の力が働いたのかは分からない。千吉は島送りになって八丈に流された。
 八丈の土は赤い。千吉は最近それを知った。まだ春も浅いのにやけに暑いし、それはどんなに江戸と違うか。 
 島の生活は厳しくて、粗悪な条件で生きさせられる。それに耐えられなければ死ぬだけだ。あとは土に埋められて、誰もそれを何とも思わない。
「いつになったらここから出られるのだろう」
 と千吉は考える。そしてすぐに、「それは考えてはいけないこと、無駄なことだ。生きているだけでも幸せなのだ」
 と考え直す。今までにこれを何回やったか。
 千吉は自分の気持ちに嘘はなかったと言いたい。でも誰も聞いていないし、たとえ聞かれたとしても、誰がそれを信じるだろう。

 千吉はフッとため息をつく。所詮自分は持たない男。若旦那とは身分が違う。それが、図に乗って高望みしたのがいけなかった。
 若旦那のように持つ者はいよいよ華々しく活躍する。持たない千吉はお縄を受ける。そして、あえなく八丈で朽ち果てる。
 でも言いたい。若旦那を助けた気持ちに嘘はない。盗みは、それとは別の悪い自分がやったこと。つまり、千吉にはよい自分と悪い自分がいるのだ。どちらも本物で、どちらかが偽物という訳ではないのだ。でも、こんな主張は通らない。皆、悪い方の千吉を責め立てて、よい方は忘れてしまう。
「こういうこともある」
 と千吉は考える。もちろん自分は罪を犯したけれど、それは罰を受けたことで償われた。若旦那に不都合なことは何もないのだ。そうなると、千吉も若旦那に何がしかの貢献をしたことを思えば、そこまで悪しざまに言わなくても良いではないか。少しは人のためになる人生を送ったと、誇らしく思ってはいけないか。
「おまけに」
 と千吉はさらに思う。この事件の前、若旦那は喜んでいた。千吉を信頼していた。でも一方で不安だった。素性のよろしくない、一介の手代と親しくなることに、一抹の心配を拭えなかった。だから今回のこの事態、巷では若旦那もショックだとか言うけれど、正直若旦那はホッとしたんじゃないか。これで然るべき道に戻ったのだ。つまり、千吉が若旦那の前から姿を消したことは、それはそれで若旦那のためになったのだ。
 こう考えると、少しは心が軽くなる。千吉ははるか北、いつ帰るとも知れない江戸を思った。
 それに手が届くときが来るのだろうか。届いたとして若旦那にまた会えるのか。それを考えると胸が痛む。甘酸っぱい期待が不安と争っている。でも、今はそれをグッと飲み込む。期待をすれば虚しいのだ。それほどに、千吉には未来がないのだ。
「でも」
 と千吉は空を見上げた、
「それでもいいか」
 千吉は独りごちた。
 ここに至って悟ったのだ。心が軽くなった今、この境遇が苦痛ではなくなった。そう考える域にたどり着いた。千吉はひとつ生まれ変わった。
 

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