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あの人はもういない

 鈴木一郎、それが彼の名だ、歳下だから一郎君と呼んでいた。会社の同僚だけれど、早百合の感覚は少し違う。気がついたときには確かに会社にいたが、その人がずっとそこにいたのか判然としない。普段はまるで気配がないのだ。いるのかいないのか分からない。それが、ごくまれに強烈な光を放つ。だから、周囲に鮮烈な印象を残す。

 あれは彼が入社してどれほど経った頃か。普段の印象が薄いからはっきりしない。昼下がりの眠気と戦っているころに突然独特の声音が聞こえてきた。
「課長。パソコン、マックにしませんか」
 以上、それだけ。それがこの一郎という人だった。

 早百合は地元東北で生まれ育った人間だ。でも、生粋かと言われるとちょっと困る。父親と母親は県外出身で、だから家では標準語を喋っていた。でも、学校では圧倒的に地元の子供が多くて方言が飛び交っている。自然に早百合は標準語と方言を使い分けるようになった。バイリンガルのようなものだ。これは、大人になって地元就職した早百合にとっては幸いだった。ここの人間は地元の方言を話す人に心を許す。だから、早百合は今から5年前の30半ばのときに、東京からUターンして今の会社に転職したのだけれど、それなりに会社の人間から大事にされた。
 そういう意味では、この鈴木一郎君は全くの外様だ。35位でこちらも転職、おまけに生まれが愛知と言っていた。そんな人がなぜ東北の田舎町に就職したのか詳らかでない。でも、彼には臆する様子はない。だから、マックなぞと平気で言うし、似たような話は他にもある。

 この人は車で通っている。田舎町は移動手段に恵まれないから、車持ちは珍しくない。でも、彼の愛車はローバーミニだ。
「世界にこれしかないという車ですからね」
 これがこの人の口癖だ。どこか遠くを見ながら言う。いやらしいったらありゃしない。
 あれは去年の暮も押し詰まった頃のことだ。結構雪が積もっていた。その中を、早百合はこの一郎君と社用で外出した。先輩格の早百合が会社の車を運転していた。
 目的地までそれ程の距離はなかった。でも、道が少し入り組んでいて、市役所の近くで脇道に入った。これがいけなかった。雪が積もって側溝が見えない。軽い衝撃とともに車が左に傾いた。
「あらら、脱輪しましたね」
 夢を見るように一郎がつぶやく。早百合は急いで車から降りて、左前の車輪を覗き込む。一郎はあとからユックリと降りてくる。かがんでいる早百合の目の前に一郎の足元が迫る。
「あ、この人ブーツを履いていないんだ」
 茶色いローファー。南国の香りがする。先が尖ってないのは歓迎だけれど、この雪で革靴はどうなんだろう。
 その一郎はゆっくりと早百合に語りかける。  
「車を泣かせちゃいけませんよ」
 早百合はムッとする。今それだろうか。這いつくばってるあたしはどうでもいいわけ?でも、一郎に委細を気にする様子は認められない。
「雪は天からの手紙ですよ。大切にしなきゃいけない。あ、もうJAF呼びましたから」
 そしてまた遠くを見る。
 早百合は救助が来ると分かって少しホッとする。でも、じきにこれに倍する怒りがこみ上げてきた。何でこんな気障男にテキパキやられなくちゃならないの。
 およそ雪国らしくない靴なんか履いて。転んだらどうする。それに腕の時計はオメガじゃないの。目がいい早百合はオームのマークを見逃さない。
 憤懣やる方なく、でもその場をスゴスゴとあとにする。

 こんな事があると、もちろん好意的に見るわけではないが、一郎の挙動が気になってくる。そうすると、これまで何もないように見えた一郎の日常が、実は色々であることが分かってきた。
 まず、一郎は年配の女性社員によく声をかける。たとえば朝出社すると、
「これはこれはご機嫌麗しく。今日もお綺麗で」と、歌うように話しかける。
 重いものを持ってヨロヨロしていると、
「奥様、お荷物お持ちしましょうか」みたいなことを平気で言う。
「こちらにお掛けください」とか言って、オメガの手をそっと差し伸べる。
 皆、この歯の浮いた台詞にはじめは警戒する風だが、じきに慣れる。慣れると悪い気はしないらしい。
「あら」とか言って心を許す。
 早百合はこういうのも嫌いだ。なんだか年寄り扱いされて気に入らない。
でも、言われた当人が満更でもなさそうなのを見ると、自分が間違っているのかと思えても来る。おまけに、そこに話の輪ができたりして、入っていけない自分が置いていかれたような気もする。早百合はそれが恨めしい。つまるところ、少し見方が変わってきた。一郎を肯定的に見てはいないが、そんな自分に疑問も出て来た。

 そんなある日のことだった。
 早百合は会社でエクセルを使っていた。奮闘していたと言ってよい。itオンチの早百合はこれが苦手だ。もちろん、普通に数字を打つ位はできる。でも、入り組んだ計算をさせるとなると、表の背後でやられていて、目には見えない複雑怪奇な計算を考えてしまう。これを信頼してよいのだろうかと疑念が湧く。何だか自分の身を委ねるようで不安になる。もし機械が間違えたらと考えると、画面を前にして頭を抱える。
 すると、ここに一郎君のオメガが現れるのだ。
「機械だって生き物です。優しく接してあげれば裏切りませんよ」
 おごそかな宣託が下る。
「彼らは膨大な計算を日夜やらされて疲れ切っているのです。労りの言葉をかけてやらなければなりません」
「危なっかしくても、信頼してあげることが大切です。信頼は愛情の証です」
 全くこんな調子で、キリストみたいな物言いだ。穏やかなバリトンが早百合の耳元に語りかける。これは痺れる。早百合は魔法にかけられたように気持ちが穏やかになる。そして、これまでの自分が分からなくなる。
「この不思議な感覚は何だ。ただの気障な男じゃないか。それをこの私が戸惑っている!」
 今から彼を見直すのは何とも口惜しい。でも、自分の心情には逆らえない。そして、まもなくその機会が訪れた。

 それは5月初めの暑い日だった。ここは東北でも盆地にあるから、この季節でも日によっては相当暑い。
 会社で何かの会議があった。ちょうど昼に差し掛かったので、そのまま外での昼食に流れた。
 早百合はこういうのが苦手だ。いつものことだ。実は早百合は食べるのが遅い。それは、次に食べるものを決断できないからだ。頭の中で迷い箸をしてしまう。一人ならなんの問題もないが、同席者、特に事情を知らない人がいるとやりにくい。だから、普段はこの手の食事会があると、何のかのと言い訳を見つけてはそれを避けてきた。でも今回は上司以下、課の全員が出席するので断りにくい。
 バイパス沿いの蕎麦屋勘右衛門。流行っているから満席だ。
 どうやら課長の奢りらしい。天ぷら蕎麦を食べることになった。
 そろそろみんなが食べ終わる頃、案の定早百合は手こずっていた。なんでこれが食べられない。蕎麦が絡む。汗がどっと出る。心臓が早鐘のように打つ。そして、課長がこちらを見ている。露骨に「やれやれ」という顔をして席を立とうとする。
 すると、するとだ。
「ちょっと待って下さい。今の時間を大切に生きなければいけませんよ。自分食べるの遅いですから」
 ゆっくりとした低い声がシーンとした一帯に響く。一郎君だ。今日はアルマーニのスーツを着ている。 
「また君か。今度は何だ」 
 つるしを着た課長が何だか気圧されている。一郎が答える声を早百合は上の空で聞いていた。それは神の声だ。見れば、一郎は自分の分をすっかり食べ終えている。それを「食べるの遅い」だなんて。いくら鈍感な早百合でも分かる。一郎は早百合の窮地を救ってくれたのだ。問題が天ぷら蕎麦だから、それは大したことではないかもしれないけれど、救いは救い、お陰でウヤムヤのうちに、その場は散開となったのだ。
「自分は誤解していたのか。この人は何だ。外見て何だ」
 と早百合は思った。
 一郎君は外見は嫌味だけど、心は嫌味と真逆だ。まっすぐでしかも温かい。じゃあ、なぜこの人は誤解を生むような気障をやるのかと考える。すると早百合は気がついた。
「気障はこの人のバリアスーツだ。照れ隠しだ」
 サングラスをする人は照れ屋が多いと言う。それと同じだ。一郎は繊細なのだ。彼の心には善意の情が溢れている。でも、それを外に表すときに繊細な感覚が邪魔をするのだ。だから、それを隠すために外見を飾るのだ。
 早百合ここで降伏した。そして我が身を反省した。会社に行くと彼を探し、少しでもお近付きになろうと努力した。もしそれが許されなくても、少なくとも今の状態を続けたいと考えた。でも、現実は残酷だ。結局それは叶わなかった。

 蕎麦屋の事件から幾日か経った日曜あけの朝、机に一郎の姿がなかった。何だか辺りがザワついていて、出入りする人が多い。皆表情が硬い。やがて、課長が立ち上がって、
「今知らせが入った。鈴木くんは昨夜車の事故で亡くなったそうだ」
 それだけ言った。ただそれだけ、それも随分事務的だ。
 課の全体が動揺する。もっと説明がほしいと誰もが思う。それでも課長はお構いなしだ。仕事を続けろ身振りで促す。
 反発と諦めの混じった重苦しい空気がその場を覆う。隣の女の子が早百合の袖を突付く。
「早百合さん。そんなに課長を睨んじゃって大丈夫ですか」
 早百合はゆっくりではあったが、事態を飲み込んだ。胸に熱いものがこみ上げてくる。理不尽、不条理。それが事故に対する思いなのか、課長に対する反感なのか、混沌として分からない。でも何とかしないと、少しでも吐き出さないと、自分の身が壊れる。胸が張り裂けてしまう。
 自分がその後何をしたか。気を失ったのか課長に殴りかかったのか。今となっては覚えていない。でも、それはどうでもいいことだ。とにかく気がついたとき、早百合は会社を離れ、当て所もなく歩いていた。

 それから更にひと月が過ぎた。
 事故のとき、一郎は路側帯に停まった車を助けようとして、後ろから来た別の車に轢かれたのだそうだ。一郎らしいと早百合は思った。助けた車の運転手は高齢の女性ではないかと想像した。
 葬儀は一郎の地元である愛知で執り行われた。一同僚に過ぎない早百合は行くべくもなかった。
 失われた人の人となりを、早百合は声を大にして言いたかった。でも、その機会は永遠に失われたし、それを言って何になろう。
 彼の良さを理解していることにかけては誰にも負けない、と早百合は自負している。それは早百合の自信であり誇りだ。だから、自分が亡き彼を心から弔う資格がある人間だと思っていたし、それは今でも変わらない。
 早百合は考える。事故は確かに悲惨だ。だけど、一郎の場合は何だか神々しい。天に向かって彼が駆け上がっていくのが見えるような気がする。仰ぎ見る自分。でも、気がつくと何事もなかったような風景。
「終わってしまった」
 と思った。早百合の何かが終わり、そして・・早百合の何かが変わった。

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